石都都古和気神社
いわつつこわけじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】石都都古和気神社 陸奥国 白河郡鎮座

   【現社名】石都都古和気神社
   【住所】福島県石川郡石川町下泉296
       北緯37度8分42秒、東経140度27分4秒
   【祭神】味耜高彦根之命 誉田別命 大国主命
   【例祭】9月14日 例大祭
   【社格】旧郷社 陸奥国一宮
   【由緒】延暦年中(782-806)福田利人が創祀
       天喜年中(1053−58)福田有光社殿造営
       天明2年(11782)造営
       明治8年郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「石都八幡宮」と称していた
   【公式HP】 石都都古和気神社
   【社殿】本殿流造 
       拝殿

   【境内社】
   【境内図】 境内図

延暦年中福田利人が創祀。天喜年中福田有光が石清水の神霊を配祀して石都八幡宮とした。社波山頂にあり、途中山中は巨石が多い。
一説には、「石都々古和氣神社」の創祀は、飛鳥時代に藤原氏の祖である藤原鎌足が「味鋤高彦根命」を「筒子山」に祀ったことが始まりとされる。
境内の狛犬は昭和5年1月30日。石工小林和平の作で、狛犬芸術最高峰のひとつと言われている。


石都都古和気神社

当社は石川町の中央の通称八幡山に鎮座し、境内及び神社森は三芦城の跡地として県及び町の史跡に指定されており、約一万年以上前から山岳信仰の場として山そのもの、又参道両側に点在する磐境(巨石)が信仰の対象として、古代の人々に崇敬されていたと思われるが、それらを裏付ける文献は残されていない。当社が始めて文献上にみえるのは延喜式年間(西暦901年)に全国の神社を調査した時である。その時に確認された神社を延喜式内社と呼び、当社もその一社に数えられている。
 京都の住人、初代福田安芸守源有光(初代石川有光)は永承六年(1052年) 父頼遠と共に源頼義・源義家に従って、奥州の豪族安倍氏追討に加わり、その功により奥州仙道のこの地を賜った。康平六年(1063年)源有光はこの地に移り住み、名を石川有光と改めた。石川有光は、四方を山々に囲まれ、阿武隈川の支流今出川が東より南を巡り、磐境(巨石)が重なり自然の要害となっているこの八幡山(当社鎮座地)に三芦城を築城した。
 治暦二年(1066年)石川有光は源氏の氏神である京都石清水八幡宮の御分霊(大国主命・誉田別命)を当社に合祀した。その日が旧九月十九日で、この時よりこの日を例祭日と定め、毎年旧九月十三日から十九日までを例祭期間とした。この時、当社第三十四代宮司 吉田英高氏の祖先(有光の第九子有祐が外祖父神祇職吉田兼親朝臣の養子となり、吉田左衛門尉と名を改めた)が当社神官となった。例祭日も時代と共に変わり、昭和五十年より新暦の九月十一日から十五日迄となり、平成十五年より九月の第二土曜日に例祭式、同日夕刻より翌日夕刻迄が渡御、第二土曜日前三日間を参篭とした。

公式HP



三芦城跡案内記

この山を通称「八幡山」と称しいわゆる三芦城跡である三芦城は石川氏代々の城で源有光の築いたものと伝えられ、康平6年(1063)頃より天正18年(1590)頃まで537年間居城した処で海抜約320mの高台本丸後西側は石都都古和気神社が鎮座し中世の城跡が殆ど原形のまま保存され価値のある史跡といわれている。
今その由来を略述すれば次のとおりである。初代源有光は永承6年(1051)父頼遠に従って陸奥の豪族阿部氏追討の軍に加わり後その功により従五位安芸守に任ぜられ奥州仙道七郡の地を賜りこの地に住んだ。
はじめ藤田城を築いたが更に適地を求めこの山に築城、康平6年頃この城に移った。城の本丸は縦50間、横180間、二の丸はこれにならい高さ130尺城は麓の川自然の要害となり形勢雄偉名づけて三芦城という。名も石川有光と改め八幡神社を勧請して石川家の護神とし崇敬篤かった。爾来この山を八幡山と称する。25代昭光の代天正18年豊臣秀吉小田原城攻めの際参向に遅れ領地没収城断絶。甥伊達政宗を頼り城を出た茲に石川氏の偉業は一朝にして消えたのである。その後昭光は伊達家に居、政宗より志田郡松山館及び菜地6000石を与えられ慶長3年伊具郡角田館に移り一万石となる代々角田に住し以て現在に至った。
石川町教育委員会
石川町観光協会

社頭掲示板



石都都古和気神社

南須釜村ナルハ其原石川下泉村ナル石都々古和氣神社ノ山ニ康平ノ頃石川有光城ヲ築キ、(建築中高田町村へ遷座シ、功竣テ本地へ遷祀ス、祖ノ仮ニ遷坐セシ跡ニ千勝神社ヲ建立セリ、)源家ノ守護神ナルヲ以テ八幡ヲ配祀シ、其ノ後南須釜村へ分砦シテソノ城(遺跡存セリ)ノ守護神トシテ祭リシ故ニ、古來八幡宮ト称シ、マタ石都々古和氣神社トモ云ヒシナルベシ、今諸社ノ傳記旧聞其ノ他、古今ノ書籍ト実検スル所トヲ参考スルニ、則上二去ヘル如ク、石川郡石川下泉村ナルゾ正シキ石都々古和氣神社ナル、其ノ考証左二陳白ス、
本社縁起ニ云ク、石都々古和氣神社者此土草創之神而、祭神味耜高根彦根命也、傳曰、此神賛成大國主神之功業而降臨于此土、創造広土蕃黎庶、亮功績於草昧留威霊於此土、故土人尊敬而崇石土造和氣神焉、山名石都々古山、爾來呼地曰石都(又通而書石川、然後世讃川爲河者謬也、)又高彦神之以下爲墾田之地上、称高田矣、郷庄村之名全因之者也、
(本社神体トシテ崇奉スル石アリ、其形細長クシテ恰モ糸瓜ノ如ク、上ニ小豆程ノ圓斑アリ、質細堅ニテ実ニ霊石ト称スペシ、(中略)長サ凡一尺五寸許、此ノ文ニ崇石土造案和氣神トアルハ拘泥ニ過タレド、石ヲ神体トセルハ上古ヨリノ事ナレバ、石都々古和氣ト云フニハ允當ニテ、是レ徴証ノ一ト云フベシ、マタ同所ヲ石川有光ガ采邑トセシハ康平年中ニテ、元來有光河内國石川郡ニ住セシヨリ石川ト称セル由ハ、下ノ文マタ尊卑文脈及ピ石川系図二見エテ、當地へ来リシ後新タニ石川郡ト称スルニ至リシニテ、其レヨリ以前ノ和名抄ニ石川郡ナクシテ(延喜式ニモ石川郡ナシ)、自河郡二石川ト云郷アリテ即当地ナレバ縁起二呼ビテレ地曰石都トアル如ク、石川卜書テ、「イハツト」ト訓ゼシナルベシ、是レ徴証ノ二ト云フベシ、高田郷ハ同所ニ高田町アリ、
孝徳帝大化乙巳大織冠鎌足公從常陸號観干此地詣當社納神劔、祈擾好臣也云々、(因二云、本社所蔵古剣アリ、當昔ノ物ナラズトモ真ノ古代ノ剣ナリ、)後冷泉帝天喜乙未將軍源頼義蒙命討奥賊時、河州福田有光屡有軍功、故賞之、以賜白河郡石川郷、於茲康平壬寅福田有光始入封内、而石都々古山欲築城郭、然山上更無出水、輸所石川々古和氣神與石清水八幡宮有神夢告、古井地馨之得清泉、故村號泉庄古井里、改郷爲郡也、治暦丙午再螢営社殿、而合祭石清水八幡宮爲當郡総社云々、
本社ハ岩立峻瞼、松栢鬱蒼タル山上二在テ、案二神地タルニ疑ナシ、是レ徴証ノミト云ベシ、山下ニツヲ達シタルニ依リテ、築城ニハ便宜ノ地ナル故、建築中高田町(営今近津神社ノ社地)へ遷座シ、治暦年中本所二遷シ、八幡宮ヲ合祭シテ石川八幡ト云ヒシナルベシ、
上件本社縁起ノ文中古ノ拠入間々アリト雖、尊卑分脈、石川系圖、和名抄等二符合シ、社地景況、本社神体マデ古社二疑ナク、土俗ノロ碑二傳フル処モ他二比スレバ託謬少ナク、ハタ白河、白川二郡二似類ノ社モ無ク、眞ノ石都々古和氣神社タルハ無論ノ事二御坐候、

石都々古和気神社及伊波止和気神社所在考証



石都都古和気神社

石都都古和気神社由緒 (旧郷社) 陸奥の国一の宮
石都々古和気神社は延喜式内社のひとつに数えられる古社で、古くから山岳信仰の聖地として多くの方々に信仰崇敬されてきた。又、全国的にも数少ない祭祀遺跡(さいしいせき)の跡地として、考古学的にも大変重要な遺跡と言われている。
約一万年位前から信仰されており、多くの磐境(いわさか)が山々に点在し、屏風岩、船形岩、亀石、天狗石、石門(鳥居)、更には三種の神器と言われる剣(剣石)、玉(勾玉岩)、鏡岩等がある。 古代、この地に於いて多くの土着民が集まり、自然崇拝や太占(ふとまに)、探湯(くがたち)等の神事が行われ、一年間の吉凶や物事の神意を占ったとされる。
京都の住人・福田安芸守源有光(ふくだあきのかみみなもとのありみつ)が永承6年(1051)奥州の安倍一族追討の軍に加わり(前九年の役)多大な功績を挙げ、その後、朝廷の命により、八幡太郎源義家の代官となり、この地を賜った。
そして康平6年(1063)この地に移り、名も石川有光となり、更に治暦2年(1066)石川有光の守護神である京都石清水八幡宮の御分霊(大国主命・誉田別命)をいただき、当石都々古和気神社に合祀(ごうし)した。
この日が旧9月19日であり、この時より、この日を大祭日と定め毎年9月13日から19日まで大祭が執り行われ、御神体を納めた神輿が氏子等の手により、山頂神社より、ふもと馬場町御仮屋にお下がりになり、奉納行事や流鏑馬(やぶさめ)が行われていた。石川有光は他の外敵の侵入を防ぐために四方を見渡せる神社神域の一角に自然の山城・石川城を築いた。この地が湿地帯であり、無数の芦(あし)が生え茂っていたことから、後にこの城は三芦城(みよしじょう)と名づけられた。
石川家はその後、天正18年(1590)、第24代といわれる石川昭光が小田原城攻防の際遅参し、豊臣秀吉の怒りをかい、この地を没収されるまで約527年間この地を支配したといわれる。石川昭光の退城により、この三芦城は廃城になったが、当時、重職にあったとされる溝井家、丹内家、又、神官の吉田家が住民と共に永く伝統祭事神事を守り続けてきた。現在、この神域は中世の山城としても遺跡に指定され、空堀、狼煙台(のろしだい)、見張台、本丸跡、土塁等がある。
現在は新暦の9月・敬老の日の前日―土曜・日曜の両日に例大祭が行われ、町民は常に歴史と伝統を重んじ、古式床しく、お祭りを守り続け、今日に伝えている。
観光・歴史
当神社は紫陽花(あじさい)と紅葉の名所として有名、その他水仙、ロウバイ、山桜、サンシュユ等の花々
石川町は「いで湯」と「桜」と「遺跡」の町として全国的にも知られ、又、明治初期、東北初の政治結社「石陽社」が設立され、神官・吉田光一を始め、河野広中や多くの自由民権運動家が活躍した町としても有名である。
平成22年3月 記

社頭掲示板



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