本来は白河国造を祀つたと思われる。 この地は白河関跡であり当社が古くからこの地にあったとは思えない、廃関後祀られたと思われる。 境内は、特別史跡名勝天然記念物に指定(昭和41年9月12日)されている。 吉田東伍は、式内・伊波止和気神社とは白河関の鎮護の神で、今の白河市旗宿の白河関跡の白河神社(旧関山明神)のこととする。 |
古関蹟の碑 白河藩主松平定信(楽翁)が寛政十二年八月、ここが、白河の関跡であることを確認して建立した碑である。 矢立の松 治承四年、源義経が、平家追討のため平泉を発し、この社前に戦勝を祈願してこの松に矢を射立てたと伝えられる。 矢立の松も戦時中 無事と戦勝を祈願して、その枯片を持ち去り、今は少量の根を残すのみです。 古歌碑 便りあらば いかで都へつけやらむ 今日白川の関はこえぬと 平兼盛 都をば 霞とともに立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関 能因法師 秋風に草木の露をはらわせて 君がこゆれば 関守もなし 梶原景季 従二位の杉 鎌倉初期、従二位藤原家隆が手植し奉納したと伝えられる老木である。樹齢八百年 周囲約5m 社頭掲示板 |
白河関跡 国史跡 白河関跡 指定年月日 昭和41年9月12日 那をば霞とともにたちしかど 秋風ぞふく白川の関 能因 白河の関は古くから歴史上、文学上でも知られたところであった。その後、時が経ち、関の位置は不明のままであったが、白河城主、松平定信によりこの関の森が「白河関」であろうと推定され「古関蹟」の碑か立てられた。 白河関の設置年代は明らかでないか承和2年(835)の太政官符に「このときより400年前に関をおいたこと」や延暦18年(799)の頃には白河関と菊多(勿来の関)の両関をおき、関守六十人を配置する」ということが史料から知られているが、七・八世紀頃に置かれその後十二・三世紀頃には廃関になつていたと考えられる。 昭和34年から続けられた発堀調査では縄文時代から中世に至る遺構や遺物が見つかり、空濠・土塁・柵列・掘立柱建物・竪穴住居址などの遣構とともに、土師器、須恵器、灰釉陶器、灯明皿、鉄製品などが出土している。 土師器の中には門、厨、司などの墨書土器が見られる。関跡は、南北250m、東西200m、比高差約12mを測る独立丘陵を利用して営まれたものである。丘陵斜面を階段状に削り、柵列を配していたのであろう。その地形が良く保存されている。 白河の関の史料は少ないが、太政官符では「■」の字を使用していることから、軍事要塞的な機能と江戸時代的な関の機能を兼ねそなえたものであったことが考えられる。 また江戸時代に入ると松尾芭蕉など俳人も訪れるなど文入墨客の文学の場所として知られている。 「■」軍事的な関の意 昭和60年6月 文部省 白河市教育委委員会 社頭掲示板 |