日本武尊が八溝の「東夷」の大将を討った際、現われた守護神が鉾立山(北山本)より箭を放ち、その場所を占い箭津機に都々古別神社を創建したとある。 |
由緒 御祭神は味耜高彦根命で日本武尊が配祀されている。 味耜高彦根命は御父君大国主命の功業を補翼し東土に下り曠野を拓き民に恩沢をたれ給うたので郷民其徳をしのび当地に奉祀されたと伝えられる。 延喜式内神大社で延喜式神名帳に名神大社奥州一宮と称される。日本武尊強夷征伐の時千度戦って千度うち勝ってがいせんされた御神徳をたたえ、その御神威に感動した八幡太郎義家が奥州征伐の時千勝大明神と改められたのもまことに故あることである。 なお引き続き足利時代に白河結城氏並びに水戸佐竹氏より数度寄進あり、以来豊臣秀吉より直筆、石田三成の書あり、佐竹氏より社頭三千貫並びに書類あり。 後、徳川光圀公の尊崇厚く御神宝の奉納あり社殿修復の際には白銀二百枚を寄進された。又、斉昭公は嘉永6年夷狄退散国家安全を祈ったと伝えられる。交通安全・五穀豊穣・家内安全・商売繁昌祈願の参拝者も多く、奥州一宮として広く知られている。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
文化財 重要文化財(国指定) 銅鉢 4口(工芸品) - 福島県立博物館に所在。室町時代。昭和36年2月17日指定 重要無形民俗文化財(国指定) 都々古別神社の御田植 - 昭和47年8月5日に記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財選択 平成16年2月6日に重要無形民俗文化財指定 福島県指定文化財 重要文化財(有形文化財) 八槻都々古別神社御正体 3面(工芸品) - 昭和57年3月30日指定 無形民俗文化財 八槻都々古別神社の神楽 - 昭和54年3月23日指定 |
都都古別神社 都々古別三社の一社で、江戸時代頃には「近津三社」(馬場都都古別神社・八槻都々古別神社・下宮近津神社)と総称された“中宮"にあたります。 縁起によれば、日本武尊(ヤマトタケル)が八溝山の「東夷」の大将を討った際、守護として示現した三神が建鉾山より箭(や)を放ち、箭の着いた場所を箭津幾(やつき)とし都々古別神社を創建したのがはじまりといわれています。 祭神は味耜高彦根命と日本武尊を祭り、農耕神としての性格が古く、のちに武神が加わったものと考えられます。その年の新籾を藁苞に入れて(ツトッコという)奉納し、その折他のツトッコをいただいて帰る風習(霜月の大祭)や桝廻しの神事、あるいは御田植の神事(旧正月6日)等の存在は、農耕神の性格を物語ります。 社宝には銅鉢(国指定重要文化財)、木面十一面観音立像(国認定重要美術品)など数多くの貴重な文化財が遺されています。 棚倉町観光協会 |
都々古別神社の御田植 旧暦1月6日の午前10時から、拝殿を舞殿として行われ、古くは夜に行われたと伝えられている。八槻都々古別神社は、平安時代に編纂された「延喜式」にも記載される神社で旧社号を近津(ちかつ)大明神といい、奥州一宮を称している。かつての氏子は県南地方一帯を占め、信仰の広さと厚さでは県内でも指折りの神社であった。御田植は古くから神社に奉仕する社家(しゃけ)と呼ばれる人々が楽人となって、拝殿で演じる稲の豊作を祈念する芸能で、伝来の時期は不明だが、その形態から室町時代以前から行われていたとされている。 祭典と神楽に続いて、拝殿や太古を田に見立て、餅の鍬や早苗に見立てた松の小枝などを持って、田植えまでの作業過程をせりふと簡単な所作で模擬的に演じていく。田植え終了後、水口祭(みなくちまつり)として鍬を肩にかついだ天狐(てんこ)による舞があり、最後に中飯(ちゅうはん)として参列者に切餅を蒔いて終わる。 古くから社家が演じて来ただけに、能や狂言のように良く洗練されている。演目ごとに楽人が掛け合う口上は丁重で、堀をさらる演目での、「ガリ、ガリ、ガリ・・・ガリ」や畔(ぬり)を演じる際の、「ガンブリベタリ、ドロリベッタリ」など、演じながら発する独特擬音も特徴的である。 社頭掲示板 |
都々古別神社 延喜式内社で陸奥国白河郡の名神大社であり、奥州一の宮の旧国幣中社である。 日本武尊の御創建にかかわり、祭神は味耜高彦根尊で相殿に日本武尊が合祀されておる。 伝記によると「日本武尊東夷征討の時高篠山に陣を取り、八満山の夷と戦うこと数度、敵強制にして屈せず、天地神明に祈り給う時味耜高彦根命が現れ、尊を助け、この国を護らんと宣せられ給うよって力を得て一気に夷を討ち平らげた。」とある。 南郷北郷合わせて18郷に近津大明神を通じて農業を殖産した。 社頭掲示板 |