式内社調査報告では社名を以下のように表記している。 第1文字 かわら(瓦)+長 第2文字 くさかんむり+麦+玉 「全国神社祭祀祭礼総合調査」では甕甕神社と表記している。 「ミは神のもの、神の行爲を表はす接頭語。ミカはミイカの約。miika→mika、イカは厳の意」とされ、本来、この地方の国魂を神格化して祀つた神社であると考えられる。 また、当社の祭祀集団は神酒づくりにかかわる土器=ミカを製作した集団であったとされる。「ミカ」とは酒をかもすのに用いた大型の甕のことで、当社に御神宝とされていた土師器が保存されている。これが転じて当社は酒の神としても崇敬されている。 |
由緒 当社の創立は詳かでないが延喜式神名帳に所載の古社であって古来旧那珂郡の総社と称されて居りました。「延喜式神名帳とは、人皇60代後醍醐天皇の延喜の年代の頃中央に於て全国の神社を調査し纏めた書物が完成された。この本を延喜式神名帳と云いこの書物に登載され居る社を式内社と云います。」神階は往古は不明であったけれども享保8年正一位の神階を授けられ宝暦8年に建設した碑に正一位みかの神社とあり。神領は徳川幕府の時代に地頭より除地四段八畝歩を寄附せられ尊敬最も厚かった。祭典は春秋二季に行い毎年秋の例祭に新米を以って濁酒二甕を造り之を撤し其の一は秋季例祭に於て新酒と交換し何れも神供として其の神事に与る氏子に信徒に分与することが例であって往古より明治中期まで行い来られる。古式の神事でありましたが現今は中止されて居る。尚宝暦13年御本殿の改造の棟札は残って保存されて居る。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
みか神社 所在地 児玉郡美里村大字広木 みか神社の創立年代は不詳であるが、醍醐天皇の延喜式神明帳に登載されている古い社で、祭神に櫛御気野命、櫛みか玉命の二神が祀られている。江戸時代の享保8年(1723)に正一位を授けられたと伝えられ、宝暦8年(1758)に建設された境内の碑にも「正一位みかの神社」とある。 現在の社殿は宝暦13年に再建したもので、これを記した棟札が残っている。 社名のみかとは酒を造るために用いた大きな甕(かめ)のことで、現在、当社に御神宝とされていたと思われる。 土師器のミカが四個保存ざれている。 例祭は、毎年4月13日と10月15日に行われ、以前は秋の例祭に新米で濁酒を二瓶造り、これを神前に奉納して、その一つは翠春の参拝者に分け与え、他の一つは秋の例祭のときに新調したものと交換していた。現在は清酒を奉納し、これを御供物として参拝者に分け与えている。 昭和58年3月 埼玉県 社頭掲示板 |
みか神社 当郡(那賀郡)の鎮守なり。延喜式神名帳に載る所のみか神社にして、武甕槌命を祀れる所なりと云。させる旧記もなければ、其證跡を得がたけれど、郡中外に古社とおぼしきものも見えず。且社地の様古木あまた生立て、いかにも神さびて見ゆればさもあるべし。今安ずるところの神像は寛政10年大興寺現住の寄附なり。 末社 天王、稲荷。 別当正学院 本尊修験、白石村寶積院配下。本尊不動。 新編武蔵風土記稿 |
みか神社御由緒 第62回伊勢神宮式年遷宮記念 みか神社御由緒 御縁起(歴史) 美里町広木1 武蔵国の北辺にあって上野国と交流を持った郡の一つに那珂郡(中郡)がある。この郡は当初、賀美郡(上郡)榛沢郡(下郡)と共に栄え、当社はこのうち郡珂郡総鎮守として祀られた神社である。鎮座地の広木は『和名秒』の「那珂郡弘紀郷」の遺称地とされる。 史料の初見は、『延喜式』神名帳の「みか神社」(ミカノ・ミカイノ)である。古代祭祀に関与した奉斎集団の古墳群は、身馴川に沿って分布する秋山古墳群・広木大町古墳群、後山王古墳群がある。これらは発掘によれば埴輪を持ったものが多い。また、これらの古墳に埴輪を供給したとされる埴輪窯として、近くに宇佐久保窯跡がある。更に、「みか神社前遣跡」は、六世記の竪穴住居跡で、埴輪が出土している。 中世は、那珂郡一帯を武蔵七党猪俣党が本拠地としたことから、これら武士団の崇敬があったと思われる。また、行田市の長久寺に蔵する明応7年(1498)7月の年紀をもつ大般若経第110奥書に「児玉郡塩谷郷阿那志県みか玉大明神宮」と当社のことが見える。 明治初年に村社となるが、式内社であることをもって明治37年に県社に昇格した、同40年には神饌幣帛料供進神社の指定を受け、三島社・稲荷社・秋葉社・八坂社・社宮司社の五社を合祀した。 社頭掲示板 |
縣社 みか神社 祭神 櫛御氣野命 みか玉命 本社は古來旧那賀郡の鎮守なり、創立年代詳ならずと雖も、郡中唯一の古社にして、延喜式のみか神社ば当社なりと、神祇志料神社覈録其他当國式社考等皆当社を以て式内社とす、然れども、 「サセル旧記モナケレバ、其証跡ヲ得カタケレド、郡中外二古社トオボシキモノモ見エズ、且社地ノ様、古木アマタ生立テ、イカニモ神ナヒテ見ユレバ、サモアルベシ、」 と新編武藏風土記稿に見えたり、御神体は同記に「今安スルトコロノ神像ハ、寛政10年、大興寺現住ノ寄附ナリ」と見えたるが、同御神像は明治維新大興寺に還附せりと、神位は往古詳ならすと雖も、享保8年正一位を授けられ、宝暦8年建設の碑に「正一位みかの神社」と勒せり、神領は徳川幕府時代、地頭より除地四反八畝を寄附せり、古來祭典は春秋二季に行ひ、秋季の例察には、新米を以て濁酒二甕を造りて之を神前に供へ、一は翌年春季の例祭に之を徹し、一は秋季に於て新酒と交換す、何れも神供と称し、祭事に與かる氏子等に分與するを以て例とせり、今尚ほ存す、明治の初、村社に列せしが、37年1月16日一躍して縣社に列す。 社殿は本殿、拝殿、其他神樂殿等にして、境内は2236坪(官有地第一種)なり。 当社祭神は社記「武甕槌命ヲ祀レル所」云々と称し、學者亦之れに随ふものありと雖も、近時此説甚だ振はす、特選神名牒に辮して云く、 「コノ祭神武甕槌命ト云ヒ、又甕速目命卜云ヘド、甕ノ字ニョリテ云ルナルベケレバ信ガタシ」、 当杜に宝暦13年本殿改造の棟札を藏せりと云ふ。 明治神社誌料 |