大里中学校南に鎮座する。 旧社地は本村の北方であったが、村民居住の後の方に当るので、今の地(本村巽の方)に遷座すると云う。 また、安政2年(1855)神職、徳永某古鈴一個を境内より掘出した。青黒の銅にて古色を帯び、片面先邪志国、片面高城神社とあると云う。 「式内社調査報告」では所在地を「大里郡大里村高本」としており、地図に表示された場所は現在「保健センター」の近くであり、土手に石碑が建っている。昭和45年に河川改修のため現在地に遷座された。 |
高城神社 当社は、延喜式内の神社と伝えられている。 鎮座地に移動があり、『明細帳』は「旧社地ハ、村ノ北方ナリシガ 村民居住ノ後ノ方ニ当タルタメ現在地二鎮座スル」と記載している。また、昭和4年に、当時の村助役である田所泰造の記した『延喜式内高城神社誌』は「和田吉野川の流れに近い中街に古く鎮座していたが、流れが変わり当社は下流の中ノ森(高城街)に流された。 これを神慮であるとして以来この地に祀られる」としている。いずれにしても、この移転の時期は不明である。昭和45年に、中ノ森は河川改修地域となり移転を迫られた当社は、旧社地である中街の現在地へ再び遷座している。 明治初め、当村名主芳三郎が浦和県社寺改役に提出した「武蔵国大里郡高本村三社」に、相上村吉見大神の社家徳永豊州が文久3年(1863)に当時の旧社地に接して家を建てた時、地中から「无邪志国・高城神社」とある古代の銅製の鈴を見付けたことを書いている。 この鈴は社宝として現存し、式内社を証明する一つとされている。 先に述べた『延喜式内高城神社誌』は当社の奉仕者について、古代から高木氏が仕え、始めは神主、後に修験正覚院となる。高木氏は、徳治2年(1307)に幡羅郡長井太田に移り太田城主高木内蔵之助元信となる。下って元和4年(1618)に正覚院に大和国初瀬の小池坊から地蔵院を移し、明治初期まで当社の別当としたとある。 社頭掲示板 |
高城神社 創建は奈良時代以前と伝えられており、『延喜式神名帳』に「大里郡一座城神社」と記載されていることからもそのことがうかがわれる。 天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原の北条征伐において、忍城(現・行田市)が攻められた際、城神社も災禍に遭い社殿を焼失した。その後の寛文11年(1671)に再建されるのだが、それは忍城主であった阿部豊後守忠秋が「城神社は式内社」であることから社殿再興を図ったことがきっかけであった。この時に再建された本殿と拝殿は、今も当時の面影そのままに残されている。(なお本殿・拝殿・手水舎以外の建物は昭和20年8月14日の熊谷大空襲によって焼失) 公式HP |
高城神社略記 御祭神 高皇産霊尊 鎮座地−埼玉県熊谷市宮町二丁目 由緒−平安時代延喜5年(905年)約1070余年前、宮中において延喜式、式内社に指定された、大変古い神社です。 現在の社殿は、寛文11年(1671年)に忍城主、阿部豊後守忠秋公が厚く崇敬され遷宮された建物です、「えんむすび」「安産」の神であり「家内円満」「営業繁栄」に導く神として崇敬されている。 祭事−元旦1月1日 秋祭10月1、2、3日 追儺祭2月(節分)七五三11月15日 春祭4月10日 酉の市12月8日 大祓い6月30日 宝物−熊谷絵地図、青銅常夜燈 蹴まり、絵馬、古文書等。 宮司 福井守久 社頭掲示板 |
常夜灯 熊谷市指定有形民俗文化財 常夜灯 指定年月日 昭和45年11月3日 所在地 熊谷市宮町 この燈籠は高さ275cmという青銅製の大きなもので、天保12年(1841)に建てられました。燈籠の台座には、県内はもとより江戸・川崎・桐生・高崎・京都など、広範囲に及ふ150名もの紺屋(藍染業者)の名前が奉納者として刻まれています。このうち熊谷の奉納者は約40名に及んでいます。 当地では、江戸時代中頃から藍染業が活況を呈していたことが知られており、明治時代後半は紺屋の最盛期であったといわれています。 常夜灯は高城神社が藍染業者から厚い信仰を受けてきた事実を語る資料として、また、藍染め盛況を知る記念碑ともいえる貴重なものです、 平成14年11月 熊谷市教育委員会 社頭掲示板 |
高城神社 武蔵国大里郡の延喜式内の論社につぎの二社がある。@埼玉県熊谷市本町。旧県社。高皇産霊尊を祀る。創祀年代不詳。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの際、社殿炎上したが、寛永16年(1639)忍城主阿部忠秋が再興を図り、その子正龍が現在の地へ奉遷し再建が成った。 例祭10月2日のほか3月10日=春季祭、12月8日=酉の市(大国祭)などがある。 青銅製常夜灯・阿蘭陀古鏡・熊谷絵地図など社宝が多い。A埼玉県大里郡大里村高本。 旧村社。高皇産霊尊を祀る。例祭4月6日。 神社辞典 |