高城神社
たかぎじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】高城神社 武蔵国 大里郡鎮座

   【現社名】高城神社
   【住所】埼玉県熊谷市宮町2-93
       北緯36度8分44秒,東経139度23分14秒
   【祭神】高皇産靈尊
   【例祭】10月2日 例大祭
   【社格】旧県社
   【由緒】延享2年(1430)造営
       寛文11年(1671)10月造営
       天明元年(1781)神樂殿・鳥居の修覆
       明治7年2月村社
       同40年10月神饌幣帛料供進神社指定
       大正5年4月19日県社
       同5月1日幣帛供進神社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「高城大明神」「高木大明神」と称していた
   【社殿】本殿平家木造流造銅葺
       拝殿・幣殿・水屋・社務所・祭器庫

   【境内社】少彦名神社・白山神社・琴平神社・大国神社
       鹿島香取神社・八幡神社・稲荷神社・熊野神社


市役所南に鎮座する。
鎮座地は荒川の蛇行によって形成された地域であり、古くから地下水の自噴する湧水池が多く、古代祭祀が行われていたものと推定できる。
創立年代は詳かでない。天正18年(1590)に豊臣秀吉の小田原攻めが行なわれたが、その折、忍城など北武藏の城も攻略され、高城神社もそのとき兵焚にかかり荒廃した。
寛文10年2月境内から霊泉が湧き万病に効能があると信仰され、数万人が参拝する神社となった。


由緒

御祭神高皇産霊尊を祀る高城神社は創祀奉斎の年代は定かでありませんが、奈良朝以前であろうとうかがわれる。延喜式神名帳に「大里郡一座高城神社」とある。旧社殿は豊臣秀吉が小田原城を攻めた折、豊臣軍勢の石田三成、浅野長政の兵士等が忍城(現行田市)攻略するに当り、当神社も災を被り焼失した。天正18年(1580年代)のことである。現社殿は寛文11年(1671年)忍城の閤老阿部備後守忠秋公が式内社であることを認め、伊藤伊織、野沢忠兵衛を奉行とし、甲良豊前を棟梁として造営された社である。大正5年4月に(旧)県社に昇格し、これを記念して建築された神楽殿・社務所及び神主の住宅は昭和20年8月14日(終戦前夜)熊谷大空襲により焼失した。昭和37年には拝殿の屋根葺き替え工事、昭和47年には高城記念館(社務所)、そして昭和55年には幣殿改築を行い、昭和58年には境内東側の玉垣、平成2年には正面から西側の玉垣改修を行う。御祭神の御神徳については、神道の古典、古事記の上巻の冒頭に「天地のはじめておこりしとき高天原に成りませる神の御名は天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神なり」とあり、この三柱の神は天地創造の神として知られている。「むすび」の神として信仰、「産」から安産の神、「生産」「産業」「建築建設」の神として信仰を集めている。又境内には6百年以上の樹齢の欅が数本あり、御神木も欅である。宝物として天国剣刃、鎧、蹴まり一式、オランダ鏡、神道流古文等々がある。境内には摂社、末社9社があり、天神社の特殊信仰をもつ社がある。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




熊谷総鎮守 高城神社略記

御祭神 高皇産霊尊(造化三神も一柱)
鎮座地 埼玉県熊谷市宮町2丁目
由緒
御祭神奉斎の時代は確かではない、しかし奈良時代以前である事はうかがわれる。現社殿は寛文11年(1671)忍城主(現行田市)阿部豊後守忠秋公が厚く崇敬され、遷座された社である。
「えんむすび」の神であり、「安産」を約束する神として敬信が厚く、そのことは「家内円満・営業繁栄」に導く神として崇敬されている。
境内には、少彦名命をまつる摂社・熊野社(熊谷の地名を産んだ)がある。また6柱の神をまつる末社がある。
昭和48年、社務所兼結婚式場の二階建ての近代的建物ができ、「えんむすび」の神前での結婚式が盛んである。
大祭
春祭 4月10日
秋例祭 10月1日・2日・3日
特別神事
元旦祭 1月1日
節分祭 2月(節分の日)
胎内くぐり(大祓)6月30日
七五三 11月15日
酉の市 12月8日
宝物
熊谷絵地図(市指定文化財)
青銅常夜灯(市指定文化財)
天国剣刀(1振)・鎧(2組)蹴鞠一式等
境内地 約2000坪
神木 樹齢約500年以上 欅木

社頭掲示板



城神社

延喜式神名帳に、武蔵国大里郡高城神社と掲る者にして、祭神は高皇産霊尊なりと云。元は社地の内北の方なる御蔵屋敷と云処にありしが、寛文11年新に宮社を造りて、今の地に移し祀ると云。
末社。天神、稲荷。
神楽堂。
霊水。神木榎の側んる池なり。眼病を患るもの此水にて洗へば、立所に平癒せるとて、目洗水と号す。
社宝。麾一。軍配二。鏃一、柳葉の形にて、銘に奉寄進高城大明神国重と鐫る。以上阿部豊後守忠秋の寄附する処なり。
鉾一、貞享3年阿部志摩守正明、奉納の由を銘す。
刀一、天文18年戌3月吉日、廣国作と銘あり。寄附人の名を傳へず。
天国刀、寛延妙玄龍と云僧の寄附せしなり。天国寶刀記と云添状あり。其略に、余太曽祖村山次郎入道清久、当武州八王子の北に居城し、家世店国寶刀を蔵す。清久没し子清武の時、羽生城に依り居こと数年の後、寇兵の為に戦死す。二子あり。長は其名を失ひ、次を清昌と云、城の陥に及て、長男は家譜由緒を収て去て、清昌は此太刀を蔵して熊谷驛に隠棲し、其子清春、清春の子清次は、乃余が父なり。余出家して世嗣を絶しを以て、寶刀を高城大明神に奉る云々と載たり。
神主福井喜太夫、吉田家の配下なり。
別当石上寺。社地には住せず、宿の南にあるを以て、別に末に出す。

新編武蔵風土記稿



城神社

永治年間、此の付近一帯に猛熊が往来し庶民の生活を脅かし悩ました。熊谷次郎直実の父直貞この猛熊を退治して、熊野権現堂(現在箱田に熊野堂の石碑あり)を築いたと伝えられる。 明治維新の後、熊野神社と称し、その御祭神伊邪奈岐命を祭り、明治40年1月14日に当高城神社境内地に遷し祭られた。 また、同年4月20日に熊野神社社地62坪(現熊野堂敷地)を高城神社に譲与された。 この熊野神社(熊野権現)と千形神社(血形神社)そして円照寺の関係は深く、直実によって築かれ、熊谷の地名を産んだとも伝えられる。

社頭掲示板



高城神社

四季折々、多くの熊谷住民に親しまれている高城神社は、創始奉斎は奈良時代以前と伝えられています。『延喜式神明帳』に「大里郡一座熄髏_社」と記載されていることから、このことがうかがわれます。
 天正十八年(1580)豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻めた際、忍城(現・行田市)も攻められ、熄髏_社も災禍に遭い社殿を焼失しました。
 その後、寛文十一年(1671)に再建しましたが、忍城主、阿部豊後守忠秋が「熄髏_社は式内社」であることから社殿再興を計ったのがきっかけでした。
 この時、再建された本殿・拝殿は今もなお当時の面影そのままに残されています。
 (本殿・拝殿・手水舎以外の建物は昭和二十年八月十四日の熊谷大空襲によって焼失)
 祭神は『熏c産霊尊』で「縁結び」「家内円満」「商売繁盛」の神として崇敬されています。
 神事として、毎年6月30日に「胎内くぐり」が行われます。国道17号に面した一の鳥居に直径4mもある大きな茅の輪を設置し、その茅の輪をくぐって厄災を取り除くというものです。
 また、毎年12月8日には「酉の市」が境内で行われます。熊谷酉の市発祥の地として熄髏_社には熊谷住民だけでなく多くの人たちが熊手や飾り物を求め、足を運びます。
 境内には樹齢六百年以上のケヤキが数本あり、御神木のケヤキにいたっては樹齢が八百年以上と言われています。
 境内の末社には、熊谷の地名を産んだ「熊野社」、六柱の神をまつる「六社」、新生児のお食い初めの時に歯ぐきに当てると丈夫な歯が生えると言われている赤石が敷き詰められている少彦名神(医学の神様・歯の神様)をまつる「天神社」がある。

由緒書



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