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もと、椋宮(倉宮)明神と称し、元慶5年、円福寺を建立した真言僧源仁僧都が深く当社を崇敬したという。 秩父別当熊谷重能は厚く当社を尊信し、寿永元年この地に居を定めたという。 |
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椋神社 椋神社の主祭神猿田彦命 は貞観13年従5位上に叙せられ延喜式神名帳に秩父郡2座とある内の1社と伝えられている。椋神社は郡下に同名社5社をかぞえ、明治政府はいずれも式内社と称することを許したという。その中で平将平、平重能の墓がある円福寺が鎮守として崇敬し、付近には古墳の多いことなどからわが椋宮が本社であるとの説もある。 当社の草創をたずねれば景行天皇41年皇子日本武尊が東国御巡見の折この地に至り猿田彦命のお導きによっての御創祀と伝えられる。 新篇武蔵風土記稿に「村ノ鎮守」と載せられ小作地を持ち氏子から社地参道寄進のあったことからも崇敬の深さが知られ元禄年間以前より舞われている獅子舞を始め神代神楽の奉納が今なお盛んなことにもあらわれている。 爾来氏子一同熱心な奉仕を続けて昭和62年10月19日伊勢本宮参拝を果たし 永代御祈祷御神符拝受を畏み 今年あたかも平成の御大礼を奉祝しこの由緒を誌し後世に伝える。 社頭掲示板 |
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埼玉県指定無形民俗文化財 昭和54年3月24日 指定 明治15年の大火で記録類が焼失し、詳しい縁起はわかりませんが、児玉町小平の石神神社獅子舞の起源に、「元禄12年皆野に伝わる獅子頭が小平に分けられ……」と伝えられています。これが皆野椋神社獅子舞に関する、最も古い記録です。 獅子頭は塗獅子で、狛犬型、龍頭型とがあり、髪は栗毛のたてがみで、大狂い、女獅子、小狂いの三頭を一組として四組一二頭あります。 演目は18庭で、神前に子どもたちの舞うお神楽三拍子に始まり、ひきま、わせ、おく、弓掛り、まり掛り、みいれ、ひょうたんまわし、幣掛り、竿掛り、花掛り、お神楽ざさら、輪掛り、橋渡り、下妻、宿割、天狗拍子で終わります。三頭の獅子の足が腰鼓にあわせてぴたりぴたりときまるのが特徴で、師匠ざさらといわれる「宿割」はその特色を最もよく表しています。 一日の行事の中ほど、中入りには二人立ちの大神楽獅子二頭が勇壮に舞い、道化たちがからみます。また、演目の最終には12頭の獅子に、中立4人が加わり、16人ざさらともいわれる天狗拍子が舞われます。 古くは上郷組、下郷組とに分れ、交代で9曲ずつを受持って演じていました。また、今は行われていませんが、椋神社と土京遥拝所の間にご神幸に供奉した道中または行列といわれた儀式は荘重なものでした。 実施期日 10月7日 土京遥拝所 10月8日 椋神社 社頭掲示板 平成3年3月31日埼玉県教育委員会 皆野町教育委員会 |
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埼玉県指定無形民俗文化財 皆野椋神社の獅子舞 昭和37年3月10日指定 古文書や文献による記録類は、明治15年の大火で焼失し詳しいことはわかりません。児玉町小平の獅子舞に関する古記録に「元禄12年皆野に伝わる獅子頭が小平に分けられ成身院覚桑上人により管理されたのが小平の獅子舞の起源…」とあるのが、椋神社獅子舞について文献に表われた紀年の最も古いものです。下妻流とも藤兵衛流ともいい、獅子頭は塗獅子、髪は栗毛のたてがみで、三頭を一組に四組の頭があります。狛犬型と巻角をもった鹿首型とあり、一組を大狂い、女獅子、小狂いと呼んでいます。演目は、十八庭で、神前に子どもたちの舞うお神楽三拍子から、ひき、わせ、おく、と掛物といわれる弓掛り、まり掛り、みいれ、ひょうたんまわし、幣掛り、竿掛り、花掛り、お神楽ささら、輪掛り、橋渡り、下妻、宿割と最終の天狗拍子とがあります。舞の特色として足の踏み方がいわれます。いつも三頭の獅子の足は腰鼓にあい、びたりびぴたりときまります。師匠ざさらといわれる「宿割」はその特色を最もよく表わしここの獅子舞の絶品です様式的で舞踊的な舞です。 雨乞いに霊験を示すということから早ばつにしばしば行われ、ささら獅子舞という言葉から、「雨乞いささら」の異名もあるほどです。一日の行事の中ほどに、中入りといって二人だちの大神楽獅子二頭に、朝日奈二人、道化十数が勇壮に舞います。圧巻は夕闇せまる頃、かがり火の中での“天狗拍子”です。十二頭の獅子に、中立四人が加わり、十六人ざさらともいわれるものです。古くは、上郷、下郷と分れ、交代で九曲ずつを受けもって演じましたが、今はこの形はありません。 また椋神社と土京遙拝所の間のご神幸に供奉した道中または行列といわれた儀式は荘重なものでしたが、今はやはりありません。土地の云い伝えでは、起源は鎌倉時代といい、古い獅子頭が椋神社の宝物(町指定有形民俗文化財)となっています。 10月7日 遙拝所(土京諏訪神社)境内 10月8日 椋神社境内 皆野町教育委員会 社頭掲示板 |
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ー 御祭神と由緒 ー 「社伝より」 本社創立ハ人皇十二代景行天皇四十年 皇子日本武尊東夷征討ノ役甲斐國酒折宮ヨリ北轉シテ武蔵上野國ニ至リ給フ 此際國造經營ノ地ヲ巡視セラレ 則チ秩父ノ山路ニ入ル 而シテ當時原野ニ出ツルコトヲ大ニ愛シ給ヒ 御矛ヲ樹テ國造ノ祖神八意思兼命ヲ遥拝シ且ツ當郡ノ山岳ヲ望ミ給フ時ニ御矛忽チ光ヲ放チ 其ノ光飛デ當原野西隅ノ森林ニ止マル 尊怪シミ彼所ニ至リ給フヤ 該森林ノ椋樹ノ下ニ老翁現レ告ゲテ曰ク 吾尊ヲ嚮導シ其ノ行路ヲ守ラント 茲ニ於テ尊其御名ヲ問ヒ給フ 翁對ヘテ吾ハ猿田彦ナリト云フ 畢テ御身ヲ隠シ給フ 故ニ此處ニ神籬ヲ立テ 八意思兼命 猿田彦命 大己貴命ノ三神ヲ鎮祭シテ椋神社ト称ス 「概略・ヤマトタケルノミコトが東国を巡見され秩父山中に出でられた時のこと。御矛を立てて秩父国造の祖神ヤゴコロオモイガネノミコトを遥かに拝されると、たちまち光が放たれ西の隅の森にある椋の木の下に老翁が現れ、「あなたを導き守りましょう」と言われた。その老翁に名を尋ねると、「私はサルタヒコノミコトなり」と言って姿を消された。よって、その地に神籬を立て「サルタヒコノミコト」「オオナムチノミコト」「ヤゴコロオモイガネノミコト」の三神が祀られ椋神社の創始となった。」 公式HP |
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椋神社御由緒 皆野町皆野238 蓑山を信仰の象徴として里の各所に祀る氏神の総鎮守 椋神社は延喜式に記載される秩父郡内二社のうちの一社で、同名の神社は当社を含め郡内に五社ある。 社記に、景行天皇40年日本式尊が知知夫国を巡見した折、この地に至り御矛を立て猿田彦命・大己貴命・八意思兼命を鎮祭したことを創祀としている。 古くは「椋宮」・「倉宮」とよはれ、元慶5年(881)円福寺を開いた源仁僧都が当社を篤く崇敬し別当を務める処となった。その後秩父庄司畠山重能・重忠親子が崇敬し、鉢形北条氏の臣用土新左衛門、江戸期には阿部豊後守、松平下総守らが崇敬した。 明治初年神仏分離によって寺の管理を離れ、村社に列せられ、明治40年(1907)近郷の二七社を合祀した、なかでも蓑山(587m)に鎮座する蓑山神社は椋神社の奥社としてそのままに鎮座し、昭和40年代頃まで養蚕守護の信仰を集めるほか、雨乞いのご利益もあらたかな神社としてこの地方に生活する人ぴとから農耕の神として位置づけられている。 例祭10月8日に奉納される獅子舞は埼玉県指定無形民俗文化財で「雨乞いザサラ」とも呼ばれ、一二頭もの獅子が舞う姿は賑やかであると共に迫力がある。獅子舞は用土氏の頃に始められたと伝えられ、その頭は「重箱獅子」と呼ばれる古い作風にみられる長万形の箱形をなし、桃山期作として町指定民俗文化財、に登録されている。 社頭掲示板 |