永禄12年(1569)に武田信玄によって焼き払われ旧殿旧記書類等を焼失した。 石器時代の遺物石杵を神宝として祀っている。 |
椋神社 当神社は往古より延喜式内の社と古老の口碑あり。然るに永緑年間の兵火に依り旧殿旧記書類悉皆焼失し、社領没収せらる。社領旧社地は神畑田耕地の字名として現存す。石器時代の遺物石杵は當社の宝物にして今尚存し神宝石と称し來れり。里人愁ひて後年仮宮を造営し古例の如く執行。宝暦13年未本社再建。明治6年7月2日熊谷縣に於て延喜式内の社と可称旨達あり。同7年4月8日同縣に於て祠掌を置かる。明治9年6月10日熊谷縣に於て村社に列せらる。同年10月5日拝殿再建す。 昭和27年神社明細帳 |
市指定無形文化財 中蒔田椋神社の神楽 秩父地方に数多い神楽も、その由来や舞の型態等によって、いくつかの系統に分かれます。なかでも古風な舞をもち、盆地内に広く分布し、その主流をなしているものは秩父神社系神楽です。 この秩父神社の神楽も幕末から明治の一時期にかけて、後継者不足から休止のやむなきに至ったといわれ、その断絶を憂えた秩父神社の神楽師佐野宗五郎は、蒔田椋神社祠掌設楽一貫と計り、椋神社氏子に伝授したと伝えられています。 明治7年3月の「太々神楽装束勧進録」には、「天朝庚平区内安全五穀成就氏子一統開化進歩へ時勢二不渡戸々家々為繁栄祈念年々祭日永代太々神楽を奏する事」。とみえることから明治7年には既に伝授されていたものと考えられます。その後座や舞の変革はほとんど行われていないので、当時の秩父神社神楽の形態を伝えるものといえます。 昭和47年4月6日 指定 秩父市教育委員会 社頭掲示板 |
椋神社御由緒 秩父市蒔田2167 秩父国造の祖、天下春命を祀る社 当社は古くから秩父の穀倉地帯であると共に交通の要所でもあった、蒔田の地名は「牧田」すなわち、隣接する野巻(野牧)の耕作地を意味するとの説があり、水田地帯としての古さは隣地区にある上蒔田の椋神社に古い御田植神事があることから知られよう。天下春命は八意思兼神の子で秩父国造、秩父彦命の祖である。 水禄12年(1569)に武田勢本郡侵入により当杜も焼失し、社領も没収され、神主生駒壹岐の家も断絶したという、天正10年(1582)武田家滅亡後、家臣荻原常陸介昌勝の曽孫、九郎次郎が当社を拝し、「永正2年8月備前長船裕定」銘のある太刀を納め、以後神主として代々奉仕した。 明治初期、秩父郡にある椋神社五社の間に式内社論争が起こり、知事の載定により五社を含わせて式内社とした。 宝暦13年(1763)造営の本殿には神宝石と称する石棒と神像を安置する。 社頭掲示板 |