椋神社
むくじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】椋神社 武蔵国 秩父郡鎮座
          (旧地)井椋塚

   【現社名】椋神社
   【住所】埼玉県秩父市下吉田 7373
       北緯36度2分42秒,東経139度1分59秒
   【祭神】猿田彦大神 武甕槌命 経津主命 天児屋根命 比売神
       (合祀)応神天皇 猿田彦命 応神天皇 磐裂神 素盞嗚命
       天手長雄命 櫛名田比売命 八柱御子神 表筒男命 中筒男命 底筒男命
       神功皇后 伊弉冉命 速玉男命 事解男命 伊弉諾命 伊弉冉命

   【例祭】10月10日 例大祭
   【社格】旧県社
   【由緒】和銅3年(710)に社殿を造営
       貞観13年11月従五位上
       永徳2年従二位
       永禄12年(1569)武田信玄によって焼失
       天正3年に鉢形城主北条氏邦によって再建
       慶長9年境内欅を伐採し江戸城建築の為使用
       寛永4年修理造営
       宝永5年2月拝殿修復
       明治6年郷社
       同15年6月30日県社
       明治17年11月秩父事件発生
       大正10年10月神饌幣帛料供進神社指定
       昭和52年3月29日龍勢の神事埼玉県選択無形民俗文化財

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「井椋大明神」「井椋五社明神」と称していた
   【公式HP】 椋神社
   【社殿】本殿流造銅板葺
       幣殿・拝殿・手水舎・神饌所・神樂殿

   【境内社】神明神社・天満神社・諏訪神社・稲荷神社・庖瘡神・産泰神社
   【境内図】 境内図

赤平川の支流の吉田川と阿熊川の合流点にのぞむ丘の上、吉田小学校の北に鎭座する。
12代景行天皇の時、日本武尊東夷征伐のとき、伊久良に御鉾を立て猿田彦大神を祀ったという。
「龍勢神事」で有名であり、これは日本武尊が奉持した矛より発した光の様を尊び、氏子たちが神社前方の吉田河原で大火をたき、その燃えさしを取つて力の限り投げ、火を飛ばして光を放ち御神慮をなぐさめたのがはじまりという。後に火藥が使えるようになると、これを用いて火筒を空中高く打ちあげる、竜勢花火となつた。
この龍勢は、口径3寸ほどの火薬筒を長さ10間余りの青竹にしばりつけたもので、これを打ち上げ櫓にかけて大空に打ち上げます。 その高さは200〜300mにおよび、ごう音を響かせて上る。
この椋神社は明治17年11月1日に、秩父困民党が集結し、有名な秩父事件の発端になった場所である。


由緒

(1) 人皇12代景行天皇御宇、日本武尊東夷征伐のとき、伊久良と云う処に御鉾を立て猿田彦大神を祀り給いしと云う。
神殿は和銅3年芦田宿禰守孫造立すと云う。多治比直人籾五斗並びに荷前を奉るとあり是当社造立の起源なり。
清和天皇貞観13年武蔵国從五位下椋神社に從五位上を授けられる。醍醐天皇延喜年間神名帳に記載せられ国幣の小社に列す。
社伝に曰く朱雀天皇天慶5年藤原秀郷当社に春日四所の神を合祀す。日本武尊5代の裔丹治家義5代の孫武信神領数十町を寄附す是を供田と云う。即ち六段田是なり其後、畠山重忠太刀一口を獻ず。今遺存して神宝となす。
長慶天皇永徳2年累進して從二位を授ける。元亀年中武田信玄秩父氏と戦い社頭を焼く神殿古器神宝旧記悉く皆焼失す。天正3年鉢形城主秩父新太郎氏邦神殿を再建す同氏獻上する処の祭具木魚二本今猶存在す。慶長9年当社境内欅35本を伐採し江戸城建築の為使用す。寛永4年神殿大破修復棟札あり。宝永5子年2月拝殿修復、棟札は左の如し。
夫武蔵国秩父郡矢場田庄吉田ノ怙鎮守井椋五所神社者延喜式神名帳所載椋神社是也縁起に曰景行天皇四十年与 天慶年中子両度鎮座也  云云
上棟井椋五所大明神拝殿修造清祓御祈祷 国家安全・五穀成就 攸 芦田伊勢守 藤原守房、芦田若狭守 藤原守光、芦田長門守 藤原重斉 干時宝永五壬子天二月吉日
寛政元酉年4月本殿檜皮葺は、天正年中北條安房守氏邦再建にして弐百有余年に及び大破に及び本殿は銅を葺き弊殿拝殿とも大修復をなす。
寛政元己酉年
奏上棟椋神社幣殿拝殿造立功成就 常磐堅磐 社頭康栄 守護祈所 神主 芦田日向守 藤原保実、芦田市正 藤原守重、芦田若狭守 藤原武矩、4月21日、大工棟梁 赤柴村 黒石勘平
明治15年6月15日県社に昇格す。大正2年近隣の神社二十三社を合祀す。大正5年11月13日無格社八幡大神社合祀許可せらる。
大正10年拝殿幣殿の改築竣工し10月4日神饌幣帛料供進神社と指定せらる昭和9年天皇陛下より祭祀料を賜わる。昭和17年9月社務所焼失す。
昭和25年12月氏子奉納金十萬円を以つて平殿拝殿の屋根大修復。
昭和34年9月、工費百三十万円餘氏子崇敬者寄附金其の他にて新社務所建設さる。昭和40年10月諸社合祀五十年祭を記念して氏子の奉納金により八幡本殿上屋幣殿屋根工事を完成す。
昭和43年12月明治維新百年祭記念として本殿屋根修理、44年4月元拝殿屋根改造完成す。昭和48年9月氏子崇敬者の奉納により竜勢櫓用細木211本柱8本奉納。細木置場を建設す。
昭和49年4月北條氏邦椋神社再建四百年祭を記念して奉納金其の他にて調製費220万円を以つて神輿調製奉納す。50年亦300万円の資金にて拝殿その他諸建築物の修復を完成し調度品を購求せり。亦49年5月20日埼玉県の補助により椋宮橋竣工す。
(以下社頭掲示板に付記)
昭和50年約300万円の資金にて拝殿その他諸建築物の修復を完成し調度品を購求せり龍勢の神事は昭和52年3月29日埼玉県選択民族無形文化財となる。特別神事龍勢煙火は平成9年には特玉県無形民族文化財に昇格する。
(2)
人皇12代景行天皇の御宇皇子日本武尊東夷御征行の砌、猿田彦大神の霊護を恭み、皇子御神ら猿田彦大神を當地に奉齊せられたるを起元とし、清和天皇の御宇貞観13年11月従五位上を贈られ醍醐天皇の延長5年12月延喜式神名帳に記載せられ朱雀天皇の御宇平将門誅伐の時、藤原秀郷春日四座の神を合祭して軍功を奏し、五座の神となる。元亀年間武田信玄の兵火に罹り社殿焼失し、天正3年北條氏邦再建す。明治6年郷社となり、仝15年6月30日県社に列せられ、大正10年10月神饌幣帛料供進神社に指定せらる。昭和17年9月30日社務所焼失し、昭和34年9月氏子崇敬者寄附金其の他にて新社務所建設さる。昭和49年4月北條氏邦椋神社再建400年祭を記念して奉納金其の他にて神輿調製奉納す。昭和50年拝殿其の他諸建築物の修復を完了。龍勢の神事は昭和52年3月29日埼玉県選択無形民俗文化財となる。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




秩父事件

1884年、明治17年11月悪徳の金貸しや政府の失政を批判し、貧民の救済を訴えておこした日本近代史上最大の農民蜂起で、秩父国民党軍は西南戦争で西郷軍が押したてた「新政厚徳」の旗をかかげて行進したという。もともと秩父郡一帯は、養蚕製糸が盛んで幕末開港以後生糸価格の好況により山村には生糸景気がおとずれていたが、明治15年ごろから深刻な不況に直面し、多くの農家が高利の借金の返済不能におちいり、破産に瀕した。16年末から秩父郡役所に対して高利貸説論請願運動をしていた上吉田村の高岸善吉・下吉田村の坂本宗作・落合寅市らは17年2月以降自由党に加わって、解決の道をさぐった。彼らは、貧民を救うために借金の10年据置き、40年々賦、学校の一時休校、諸説の減免などを嘆願して農民らと運動をつづけた・だが、官側ばこれを受けつけず、金主らもこれらの要請を拒否して、いっそう苛酷な取立てを行った。そのため、高岸はじめ井上伝蔵ら吉田村の有志は17年9月、田代栄助を首領に仰いで盟約をかわし、ひそかに武装蜂起の準備をはじめた。この事件の主力は、吉田である。現吉田町の加藤織平が副総理、井上伝蔵が会計長、飯塚森蔵が大隊長、以下高岸ら多くの幹部を輩出した。組織は秩父の村々から上州・信州にまで及んだ。彼らは11月1日、椋神社で困民軍二大隊を編成、五カ条の軍律を定め、一般の住民に危害を加えることを厳しく戒めた。11月2日、大官郷に入って郡役所を占拠、3日荒川河畔で憲兵隊と交戦して撃退、4日・5日児玉郡金屋と下仁田峠で鎮台兵と交戦したが敗れ、本隊は解散した。だが、一隊は十石峠をこえて信州に転戦、9日の東馬流の戦闘を最後に潰走した。蜂起参加者は最盛時八千人とも一万人ともいわれるが、有罪判決を受けた者3800余人(最高幹部は死刑ないし無期懲役〉、官憲の調書に名を残した者4200余人、その内の約四分の一が吉田町の人間だった。明治政府ば、この戦闘で死亡したり負傷した軍人や警察官の処遇にあたづて、これを西南の役に準ずる「戦争」として扱い、秩父事件の戦況や結末の報告は大政大臣から明治天皇のもとにまで届けられている。この武装蜂起で発揮された秩父農民の楽天性や高揚したエネルギー、それと、より良い未来をめざした志は、今もなお多くの人びとに感銘をあたえている。1984年、昭和59年秩父事件百周年を迎えるや、全国でさかんな記念行事や顕彰運動が行われ、この事件の持つ大きな歴史的意義が再評価された。
(NHKは大河ドラマ「獅子の時代」で秩父事件をとりあげている。〉〈文責色川大吉〉

社頭掲示板



椋神社

日本武尊東夷ノ逆徒ヲ征伐トシテ奉命諸國ヲ巡狩シタマウトキ、甲斐國酒折宮ヨリ武藏國諸郡ヲ経テ此所二著御アリ。固ヨリ當國ハ深山幽谷ニシテ殆ト霧深 。於是日本武尊群臣等ト議曰不能進而其所ヲ知ラサルナリ。尊歎之既二軍神事勝長狭神(即猿田彦大神ナリ)二神慮ヲ請ヒテ之二進ト欲シ、暫ク此所二停止シ鉾ヲ杖トシテ相休焉コ時アリ忽然トシテ光輝顯レ斐錬ス。既二老翁井泉ノ椋ノ下二現出スルナリ。老翁示曰吾レ尊ノ爲二瞼路ヲ導ナリ。日本武尋再拝シテ立焉。一説曰忽チ光ヲ放ツ。其光耀ノ飛止ル所、尊怪以テ其処二到り既二老翁井邊ノ椋本二現出スル也。示日吾則猿田彦大神ナリ。,日本武尊ヲ導ント欲シテ此処二臨ムナリ。日本武尊再拝立焉。日本武尊神二誓ヒ東國多叛ノ夷賊等王化二背クモノ之ヲ討チ安キニ置ハ井椋神祠ヲ作ラシムナリ。忽チ神慮ヲ垂ヨ焉。時アリ風ヲ起シ霧ヲ擬ヒ雲ヲ佛ヒ山鳴り瞼路ヲ披ク。偉哉於是漸ク群臣等進ムコトヲ得テ大二賊徒ヲ討チ軍功アラハルナリ。日本武尊喜日是則大神庇護ヲ垂ルナリ。故二之ヲ謝テ神祠ヲ造立シ永ク鎭座ト爲サシムル焉。則チ井椋宮是也。亦井椋ノ本之ヲ明光場ト謂フ。本社二十町ヲ隔ツ称テ井椋社ト日フナリ。亦当社ノ西二當り櫻ノ大樹アリ、之ヲ奥ノ院ト云。井椋塚アリ。今則畠ノ中ニシテ旧井戸アリ。今民間二用ユ。亦日本武尊鉾ヲ以テ神体ト爲シ猿田彦大神ヲ祠り給フナリ。彼光耀飛立ル所則赤井坂現今華表ノ左側二在ル焉。

神社に伝わる縁起



龍勢

人皇13代景行天皇の御宇皇子日本武尊詔を奉載して東征の砌当地を御通りに相なり山深く霧巻き覆い行く先を知らず暫し止り給うに持ち給へる御鉾より奇しき光り飛んで止まりたるを怪みて其の方に至れば井泉の傍らなる椋の大樹の側に当に猿田彦大神現われ給い日本武尊を導き奉らんとしてそれより東の方赤井坂まで導かれ御姿を隠され給う。日本武尊の武威俄に上り平定の功を奏せられ大いに喜び給い御自身の御鉾を御神体として猿田彦大神を祀られ永く東国の鎮守たれと祈請せられ給う其の御氏子の人々が祭りを永く続け来たり旧古は祭礼当日氏子民が神社の前方吉田河原でで火を炊き其の火のついた木を投げて御神慮を慰め奉りしを例とす。火薬が出来るに及んで火薬に依って火の光を飛ばすことを工夫し現在の特殊の煙火龍勢となり永く奉納されるに至る。竜勢の製造法は松の生木を伐って円筒を作り竹のたがを掛けて堅く造った物へ火薬を極く固く詰め詰めの終わりの方は塞いで詰め始め即ち下の方から錐で穴を明けこれに導火薬を挿入するもので之れに矢柄と云って竹を付けるが此の■は竜勢が垂直に上って狂いのない様にするためであり、なるべく長い方が素性よく上り勝ちになる。而して揚げるには八間位の櫓を造り其の上方部に四角の金棒を渡し竜勢を此の金棒に掛けて導火線を長くつないで櫓の下方から点火する此金棒の水平こそ極めて肝要であり直立して上れば櫓の側へ矢柄が落ちるので金棒を僅か傾け下方に針金を引いて矢柄を少し傾けて櫓から放れて落下する様に調節する。新調に実施する故事故もなく恒例の行事として現在にに至る。竜勢煙火を好み給う御祭神の御神徳と竜勢を好む氏子の赤誠と練達と相一致して完全に遂行することが出来たのである。白煙を噴いて中天高く上昇する竜勢はさながら龍の昇天を思わせ豪壮に極まりなく日本国が生んだ貴い文化財である。昭和39年9月29日吉田町指定民俗資料となり昭和52年3月29九日埼玉県選択無形民俗文化財となる。誠に古田町が誇るに足る文化財であり、茲に氏子崇敬者一同石に刻して記念碑を建設し永く此の栄誉を後世に伝えるものである。
昭和54年10月5日
延喜式内椋神社宮司 引馬慧書
吉田町龍勢保存会長 和久井完

社頭掲示板



椋神社

創立
人皇十二代景行天皇の御代
日本武尊東夷征伐のとき「日本武尊当地赤柴にて道に迷われた折、お持ちになった鉾の先から一条の光が走り、その方向に大きな椋の木が立ち、根方の泉近くに猿田彦大神が立たれ、赤井坂に導かれる。これにより大勝を得られたので、尊は喜ばれて井泉の辺に鉾を神体として猿田彦大神を祀り給うた。これを当社の創めとする。鉾より光の出たところを光明場(あかしば)という。」
※井泉の辺は伊久良と言い、のちに井椋と呼ばれ、現在の井椋塚である。猿田彦命と天鈿女命が祀られている。
和銅3年(710) 芦田宿禰守孫始めて社殿を造営する
定観13年(871) 従五位上を賜る
延喜年間(901〜) 延喜式神名帳に秩父郡二座、秩父神社・椋神社(国弊小社)と誌される
天正3年(1575) 戦国時代の兵火を受け消失した社殿を。鉢形城主北条氏邦によって再建された。村民大いに祝して大祭を挙行する。祭具木魚二本、氏邦着用の筋兜を神社に奉納する。(現存)
慶長9年(1604) 境内の欅の大木を、江戸城天守閣の用材として、三十六本を伐採し吉田川より河流しにて江戸へ送る。椋神社神主、江戸神田明神の鍵番を徳川家康より仰せつかる。
明治6年(1873) 椋神社、村社に列せられる。
明治9年(1876) 椋神社境内に校舎建築、東・西吉田・阿熊学校を統合し。椋宮学校とする。
明治15年(1882) 椋神社、県社に昇格する。
明治17年(1884) 椋神社に困民党集結し、秩父事件勃発する。

公式HP



秩父事件百年の碑

秩父困民党三千余の農民が武州秩父郡下吉田村椋神社の境内に武装蜂起したのは、明治17年(1884年)11月1日のことである。
その要求は負債捨置年賦償還、村費□減、小学校休校、雑収税減免の他兵令改正等であった。困民党は自からの体制を軍隊組織に編成し私利私恨女犯への軍律は特に厳しかった。
困民党軍は2日大宮郷に進出、革命本部を設け秩父盆地一帯を掌中におさめた。驚いた政府は急遽憲兵鎮台兵を派兵、その襲撃の中で困民党軍は9日信州八ヶ岳山麓で壊滅するまで果敢なたたかいを展開したのである。
このたたかいの中で農民の意識はさらに昂揚し、圧制を変じて良政に改め自由の世界を出現させる信念は益々強化されていった。自由民権制の変革思想が大地で斧や鍬を振るう人々を、必死の行動にかりたてるエネルギーとなったのである。
秩父事件より百年、自由と民主主義が愈々重きをなす今日、私たちは、この運動の源流としての秩父事件を切に思う。
茲に、父祖たちの鎮魂と共に事蹟を顕らかにしその遺産を継承すべく記念碑を建て、自由への□火がわが秩父谷にあげられた証としたい。
昭和59(1984)年11月1日
秩父事件百周年吉田町記念事業推進委員会
秩父事件顕彰運動実行委員会

社頭掲示板



椋神社御由緒

秩父市下吉田7377
延喜式内の古社、例祭に国指定重要無形文化財の龍勢花火がある。
当社の創祀については、「日本武尊当地赤柴」にて道に迷われた折、お持ちになった鉾の先から一条の光が走り、その方向に大きな椋の木が立ち、根元の泉近くに猿田彦大神が立たれ、赤井坂に導かれる、これにより大勝を得たので、尊は喜ばれて井泉の辺に鉾を神体として猿田彦大神を祀り給うた。これを当社の創めとする。鉾より光の出た所を光明場という』と伝えるのがト部兼敏『椋五所大明神由来』享保10年(1725)の記載である。
永禄12年(1569)の武田勢の侵入による秩父谷の社寺焼打ちで社殿消失、天正3年(1575)に鉢形城主北条氏邦が五宇あった神殿を一宇に改めて現在地に再建。社宝には、氏邦公寄進と伝える筋兜の優品(埼玉県文化財)が現存する。現在の本殿は、寛永4年(1627)に修理を加えたもので、脚元の細い蟇股などに古様を遺している。
明治15年(1882)に県社となり、大正2年(1913)には近隣の二十三社を、同5年(1916)に同字の八幡社を合祀した。八幡社は『新編武蔵風土記稿』に「若宮八幡社」とある社で、享保12年(1727)の同縁起によると。秩父平氏の祖、将経の子武基が当地に土着、その子秩父十郎武綱が館の填守に勧請したもの。現在の同社本殿は、本社右手に鎮座、旧拝殿は本社昇殿として移築されている。
永禄の兵火まで本社が鎮座した旧社地には、現在「井椋塚」と呼ばれる古塚があり、天鈿女命を祀り、塚上の桜木を鈿女桜と呼ぶ。

社頭掲示板



椋神社

椋は久良と訓べし〇祭神猿田彦大神、(地名記〇式社考には、祭神天児屋命と云り、)○矢田庄下吉田村に在す、(同上)今井椋 五社明神と称す、例祭月日、
神位
三代實録、貞観13年11月10日壬午、授武藏國從五位下椋神從五位上、

神社覈録



武蔵国INDEXへ        TOPページへ


学校DATA