今城青坂稲実池上神社
いまぎあおさかいなみいけがみじんじゃゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】今城青坂稲実池上神社 武蔵国 賀美郡鎮座

   【現社名】今城青坂稲実池上神社
   【住所】埼玉県児玉郡神川町関口38
       北緯36度13分17秒,東経139度5分59秒
   【祭神】淤迦美神 豊受毘売命 罔象女神 埴安姫命
   【例祭】10月19日 例大祭
   【社格】
   【由緒】神亀元年(724)2月創立
       天正五年(1577)3月現地に遷

   【関係氏族】
   【鎮座地】阿保神社の裏に鎮座していた
        天正五年(1577)3月現地に遷

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「丹生社」と称していた
   【社殿】本殿流造
       拝殿・水舎・社務所

   【境内社】菅原神社・八坂神社・稲荷神社・八幡神社・愛宕神社

もとは丹生明神社と呼称。阿保神社の裏に鎮座していたが天正5年(1577)に元阿保村と関口村とに分立した際に、関口村の鎮守として現在の地に移されたという。
創立は不明(一説に神亀元年・724)、延喜式内社と伝えられている。当社の社号は元の領主であった安保氏の祖先が大和国丹生川神社を勧進したことに由来するという。


今城青坂稲実池上神社

當社は延喜式内當國四十四座の一にして今城青坂稲實池上神社なりと云ひ傳ふ。往古元阿保村と一村たりし時、六所社丹生社同村にありしを、天正5年丁丑(1577)3月分村の際、丹生社を本村の鎭守と定め、今の地に遷し祀るといふ。當社の社號は素領主阿保氏の祖先大和國丹生川上神社を此地に遷し祀れるを以て丹生社と称すと云ふ。本社は旧阿保領十三ケ村の関口なるにより、関口村と称す。又當社の古き(年月不詳)額面に今城青坂稲實池上神社横山某書とあり。又古き手洗石に今城神社と彫刻ありて、北武藏名跡誌に當社を延喜式内のよし云傳へたりと記載せり。又社地接続の地に、當社旧別當幸春院に、文亀3年(1503)建之と記載ある石の六地藏あり。是も名跡誌に記載あり。又此の邊の小名を往古より池上と称し來れり。

昭和27年神社明細帳



今城青坂稲実池上神社

関口は神流川右岸に位置している。地名は安保領一三か村の用水(安保用水)の堰口に当たることに由来するという。  当社は、関口の小名の一つである池上に鎮座している。その境内地は台地の端にあり、西方の低地には水田が開かれている。  『延喜式』神名帳に見える賀美郡四座のうちの「今城青坂稲実池上神社」の比定社の一つとされ、『風土記稿』では「丹生明神社」とある。  その由緒は『明細帳』によると、創立年月は不詳であるが、当社は延喜式内当国四十四座の一つである今城青坂稲実池上神社であると言い伝える。往古は阿保村と一村であった時、六所社と丹生社が同村にあったが、天正5年(1577)3月の分村の際に丹生社を本村の鎮守と定め、今の地に遷し祀ったという。当社の社号はもとの領主であった安保氏の祖先が大和国丹生川上神社をこの地に遷し祀ったので丹生社と称するという。一方『群村誌』によれば、延喜式内小社の今城青坂稲実池上神社と言い伝え、勧請は神亀元年(724)2月のことであるという。以下は『明細帳』と同様で、阿保村から分村の際に丹生社を遷し祀った旨が記されている。  別当は真言宗光徳寺で、丹生山延命院と号し、中興開山広重は寛文3年(1663)の没という。同寺は明治6年に廃寺となった。  大正15年には、延喜式選上一千年記念として社務所を新築した。

社頭掲示板



今城青坂稲実池上神社

今城青坂稲実池上神社<神川町関口三八(関口字池上)> 関口は神流川右岸に位置している。地名は、安保領一三か村の用水(安保用水)の堰口に当たることに由来するという。
当社は、関口の小名の一つである池上に鎮座している。その境内地は台地の端にあり、西方の低地には水田が開かれている。
『延喜式』神名帳に見える賀美郡四座のうちの「今城青坂稲実池上神社」の比定社の一つとされ、『風土記稿』では「丹生明神社」とある。
その由緒は『明細帳』によると、創立年月は不詳であるが、当社は延喜式内当国四十四座の一つである今城青坂稲実池上神社であると言い伝える。往古は阿保村と一村であった時、六所社と丹生社が同村にあったが、天正5年(1577)3月の分村の際に丹生社を本村の鎮守と定め、今の地に遷し祀ったという。当社の社号はもとの領主でった安保氏の祖先が大和国丹生川上神社をこの地に遷し祀ったので丹生社と称するという。一方『郡村誌』によれば、延喜式内小社の今城青坂稲実池上神社と言い伝え、勧請は神亀元年(724)2月のことであるという。以下は『明細帳』と同様で、阿保村から分村の際に丹生社を遷し祀った旨が記されている。
別当は真言宗光徳寺で、丹生山延命院と号し、中興開山広重は寛文3年(1663)の没という。同寺は明治6年に廃寺となった。

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