和銅4年(711)の創立と伝えられる。古くから朝廷や武将の祈願を集めていたが天正10年(1582)に神流川合戦による兵火で焼失。のち再建されたが元禄7年の大洪水で社殿を流失。本殿だけをかろうじて水中から引き上げ、地盤を高くして改めて鎮座させた。 しかし、その後衰退し、寺僧が管理するようになり、社号も一時稲荷社を称すようになったというが、その後旧名に復したという。 |
今城青坂稲実池上神社 元弘3癸酉年(1333)新田義貞公兵を起しゝ時、武藏國金窪に太耶城を築き、國界鎭撫として其將畑六郎左衛門尉時能を以て城代とす。而公要害を巡視するに、城の艮に当り古祠の荒廃するあり。公土人に之を問ひ給ふに、延喜式内稲荷大明神なりと云ふ。公命じて修繕を加へ、太耶城の鬼門となして戦勝及國界鎭静等を所り賊を鎌倉に討ち玉ふ。是に神の鴻思を感謝し玉ふ。時能も又祈誓して軍功を蒙る。延元3戊寅年(1338)公の季子義宗、金久保を領して又戦勝を祈り玉ふ。応安元戊寅(1368)上杉民部大輔憲顯金窪を領し、其男左近將監榮代官として國界鎭静を祈る。大永4乙酉年(1524)齋藤左衛門盛光金窪に居城して新田氏の如く同社を以て城の守護神となす。天正10壬午年(1582)瀧川一益北條氏邦と神流川及金窪に戦ひし時、惜むらくは新田公造営の社及び諸氏寄附の神賓等皆兵火に罹りしと、同社の旧記に云云。 昭和27年神社明細帳 |
池上神社 所在地 上里町忍保225 池上神社は、和銅年間(708〜715)の創立で、延喜式内社武蔵国44座の一つで、延喜式内神名帳には、今城青坂稲実池上神社と記されている。 忍保庄の神社と伝えられ、祭神は伊吹戸主神と豊受姫命で、古くは善台寺において別当を兼務し神事を司っていた。 正慶年中(1332−34)には新田義貞、大永年中(1521−28)には斉藤盛光の崇敬が篤く、神殿の修復が行われたといわれている。 また、天正10年(1582)、織田信長の家臣である厩橋(群馬県前橋市)城主の滝川一益と小田原城主北条氏直との神流川合戦の際に社頭を焼失し、その後、川□信俊により再建されたと伝得られ、現在の社殿は明治12年に改築されたものである。 なお、当神社には明治初期に始まった、「忍保の神楽」と呼ばれる神楽の一座があある。 昭和61年3月 埼玉県 上里町 社頭掲示板 |
今城青坂稲実池上神社 第62回伊勢神宮式年遷宮記念 今城青坂稲実池上神社 上里町忍保225 縁起 当社は烏川を背にして祀られており、『延喜式』神名帳に見える賀美郡 四社の内の「今城青坂稲実池上神社」の比定社の一つとされている。社名の 「いまき」は今城すなわち新来の意で、渡来系氏族が当地に高度な技術 を導入し、「稲魂」を祀ったものであろう。 祭神は伊吹戸主命・豊受姫命の二柱である。社伝によれば、和銅4年(711)に勧請され、忍保庄の総社として崇敬された。元弘年中(1331―34)に新田義貞が金窪に大耶城を築いた際、城の艮(東北)にあって荒廃していた当社を再興し、城の鬼門除けとして戦勝を祈願した。 以後、代々の城主の崇敬を受けたが、天正10年(1582)に神流川合戦 の兵火により社殿を焼失した。天正19年(1591)に川窪与左衛門信俊が社殿を改築し、神田を寄進した。元禄7年(1694)の大洪水 に社殿が流出したが、本殿だけはかろうじて水中から引き揚げ、地盤を高く築き、修繕を加えて再興した。しかし元禄11年(1698)に信俊の孫武田越前守信貞が丹後国に転領となってから衰退の一途をたどった。 その後、元文3年(1738)に地頭から鳥居の再建を供米の奉納があり、更に嘉永年間(1848―54)には地頭から社殿の修繕と神田の寄進があり、徐々に社運を盛り返した。 明治5年に旧称に復して村社となり、同32年に県社に昇格した。 御祭神 伊吹戸主命 ・豊受姫命 御祭日 歳旦祭(1月2日) ・祈年祭並び老人会健康祈願祭(3月17日) ・大祓式(6月30日) ・斎田祭(7月25日) ・例祭(10月17日に近い日曜日) ・新嘗祭(11月27日に近い日曜日) ・大祓式(12月29日) 。 社頭掲示板 |
今城青坂稻実池上神社 今城青坂稲実は前に同L、池上は伊介賀美と訓ベレ、○祭神伊吹戸主命、(地名記)〇七本木村に在す、(同上)祭月日、 前件三社、太田氏式社細見録には、本長瀬村に合祭して榛名大明神と称すと云り、地名記も、村名はかはれども、同所鎮坐の由は同じ、さて祭神の説は、記のまゝに載すといへども疑はし、猶考ふべし、 神社覈録 |
縣社 今城青坂稻實池上神社 祭神 伊吹戸主命 合祀 豊受姫命 創立年代詳ならす、但し古老の口碑に云く、和銅年間の創立にして、延喜式当國四十四座の一に列せられ、忍保庄の総社たりと、当村善台寺に於て別当を兼務し神事を掌れり、同寺は天慶2年の創刹にして、寺格武藏真言宗壇林地の一なり、正慶年中新田義貞大永年中齋藤盛光社殿を修繕せしが、後ち天正年中神流川の戦に兵焚に罹り、社殿焼亡す、同年川窪與左衙門尉信俊之を再建す、元禄年中同氏の孫武田越前守信貞丹州に転領せしより、漸く社運衰頽するに至れり、社號は之を稲實より転訛して、稲荷神社と称せしが、何の頃よりか、古称に違ふの故を以て、今の號に改めしと、当社果して式社なりや否やは、學者の疑問にして、或は当社といひ、或は七本木村といひ、或は本長瀬村といふと雖も、伴氏の考証又は栗田氏の志料の如きは黙して何事をも云はす、明治5年村社に列せしが、31年縣社に昇格す、社殿は本殿、拝殿、其他神樂殿、御撰所、直曾殿等あり、境内は2495坪(官有地第一種)あり。 明治神社誌料 |