|
上里中学校に南接して鎮座する。 古来より延喜式内社「今木青坂稲実荒御魂神社」といわれているが確証はない。ただ鎮座地内には平安時代の住居跡があり、熊野神社境内も東堤古墳群に属する墳丘上に鎮座していることから熊野神社が勧進される前に式内社があった可能性も考えられるという。 境内社に今木青坂稲実荒御魂神社があるとするが不詳。 |
|
熊野神社 堤は、江戸時代の初期までに開発された村で、正保2年(1645)の「国絵図」(本庄市中原歌子家蔵)によれば、当時の村高は379石、家数は36軒であった。 当社の主祭神は、『明細帳』には、竒御木野命(神祖熊野大神櫛御気野命)・竒稲多姫命・豊受姫命の三柱が記されている。 『風土記稿』堤村の項に「熊野社 鎮守とす、東昌院持、相伝て[延喜式]神名帳に載る所の今木青坂稲実荒御魂神社なりといへど、証となすべきことなし」とあるように、当社は『延喜式』神名帳に載る賀美郡四座のうちの今木青坂稲実荒御魂神社であるといわれてきた。 『風土記稿』に記されている通り、それを裏付ける資料はなく、町内にある他の熊野神社が中世の武士団の信仰とかかわりがあることから推測すれば、当社が今木青坂稲実荒御魂神社であるとするのは付会かと思われるが、地内には平安時代の住居跡があり、当社も東堤古墳群に属する墳丘上に鎮座していることから考えると、当社が勧請される以前にもこの地に何らかの神社があった可能性までは否定できない。 また、江戸時代に別当であった東昌院は、『児玉郡誌』によれば、本山派の修験で、幸手不動院の配下として当地方の修験道の年中行事職を務めていたという。この東昌院は、神仏分離によって廃寺となり、当社から東へ約2Km離れた石蔵寺の脇に、その跡地がある。 社頭掲示板 |
|
熊野神社 『風土記稿』堤村の項に、「熊野社 鎮守とす、東昌院持、相伝て[延喜式]神名帳載る所の今木青坂稲実荒御魂神社なりといへど、証となすべきことなし」とあるように、当社は『延喜式』神名帳に載る賀美郡四座のうちの今木青坂稲実荒御魂神社であるといわれてきた。『風土記稿』に記されている通り、それを裏付ける資料はなく、町内にある他の熊野神社が中世の武士団の信仰とかかわりがあることから推測すれば、当社が今木青坂稲実荒御魂神社であるとするのは付会かと思われるが、地内には平安時代の住居跡があり、当社も東堤古墳群に属する墳丘上に鎮座していることから考えると、当社が勧請される以前にもこの地に何らかの神社があった可能性までは否定できない。 埼玉の神社 |