熊野神社
くまのじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】今木青坂稲実荒御魂神社 武蔵国 賀美郡鎮座

   【現社名】熊野神社
   【住所】埼玉県児玉郡上里町堤1204
       北緯36度14分39秒,東経139度8分20秒
   【祭神】奇御木野命 奇稻田姫命 大物主命 誉田別命
       倉稻魂命 菅原道真 少彦名命 多紀理毘売命 狹依毘売命
       多岐都毘売命 天之穗日命 火産靈命 伊弉冉命 天津日子根命
       天照大御神 河菜姫命 表筒男命 中筒男命 底筒男命 菊理媛命 伊弉諾命

   【例祭】10月19日 秋祭り
   【社格】
   【由緒】由緒不詳

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「熊野皇太神社」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】稲荷神社・琴平神社・八坂神社・今城青坂稲實荒魂神社

上里中学校に南接して鎮座する。
古来より延喜式内社「今木青坂稲実荒御魂神社」といわれているが確証はない。ただ鎮座地内には平安時代の住居跡があり、熊野神社境内も東堤古墳群に属する墳丘上に鎮座していることから熊野神社が勧進される前に式内社があった可能性も考えられるという。
境内社に今木青坂稲実荒御魂神社があるとするが不詳。


熊野神社

堤は、江戸時代の初期までに開発された村で、正保2年(1645)の「国絵図」(本庄市中原歌子家蔵)によれば、当時の村高は379石、家数は36軒であった。
 当社の主祭神は、『明細帳』には、竒御木野命(神祖熊野大神櫛御気野命)・竒稲多姫命・豊受姫命の三柱が記されている。
 『風土記稿』堤村の項に「熊野社 鎮守とす、東昌院持、相伝て[延喜式]神名帳に載る所の今木青坂稲実荒御魂神社なりといへど、証となすべきことなし」とあるように、当社は『延喜式』神名帳に載る賀美郡四座のうちの今木青坂稲実荒御魂神社であるといわれてきた。
『風土記稿』に記されている通り、それを裏付ける資料はなく、町内にある他の熊野神社が中世の武士団の信仰とかかわりがあることから推測すれば、当社が今木青坂稲実荒御魂神社であるとするのは付会かと思われるが、地内には平安時代の住居跡があり、当社も東堤古墳群に属する墳丘上に鎮座していることから考えると、当社が勧請される以前にもこの地に何らかの神社があった可能性までは否定できない。
 また、江戸時代に別当であった東昌院は、『児玉郡誌』によれば、本山派の修験で、幸手不動院の配下として当地方の修験道の年中行事職を務めていたという。この東昌院は、神仏分離によって廃寺となり、当社から東へ約2Km離れた石蔵寺の脇に、その跡地がある。

社頭掲示板



熊野神社

『風土記稿』堤村の項に、「熊野社 鎮守とす、東昌院持、相伝て[延喜式]神名帳載る所の今木青坂稲実荒御魂神社なりといへど、証となすべきことなし」とあるように、当社は『延喜式』神名帳に載る賀美郡四座のうちの今木青坂稲実荒御魂神社であるといわれてきた。『風土記稿』に記されている通り、それを裏付ける資料はなく、町内にある他の熊野神社が中世の武士団の信仰とかかわりがあることから推測すれば、当社が今木青坂稲実荒御魂神社であるとするのは付会かと思われるが、地内には平安時代の住居跡があり、当社も東堤古墳群に属する墳丘上に鎮座していることから考えると、当社が勧請される以前にもこの地に何らかの神社があった可能性までは否定できない。

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