皇大神社
こうだいじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】今城青八坂稲実神社 武蔵国 賀美郡鎮座
   【延喜式神名帳】今木青坂稲実荒御魂神社 武蔵国 賀美郡鎮座
   【延喜式神名帳】今城青八坂稲実池上神社 武蔵国 賀美郡鎮座

   【現社名】皇大神社
   【住所】埼玉県児玉郡上里町長浜494
       北緯36度14分6秒,東経139度6分28秒
   【祭神】大日霊貴命
   【例祭】3月19日 例大祭
   【社格】旧村社
   【由緒】由緒不詳
       明治5年村社
       明治41年11月長幡部神社に合祀
       戦後再び当地に遷座

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初鎮座の地不詳
        明治41年11月長幡部神社に合祀
        戦後再び当地に遷座

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「神明社」と称していた
   【社殿】本殿
       

   【境内社】稲荷神社・諏訪神社・疱瘡神社・天神社・八坂神社

平地のごく小社。式社表示無し。
元は神明社と称していた。かつては当地に稲荷社(一説にはこの稲荷社こそ式内社とも言う)が祀られていたというが、いつのころか長幡部神社に合祀され、その後に神明社が祀られ、明治期に皇大神社となったという。
当社も明治41年に長幡部神社に合祀されたが、社殿等はそのまま残され、戦争後に当地に遷座され皇大神社として復したという。
今木青坂稲実荒御魂神社の論社でもある。
今城青八坂稲実池上神社の論社でもある。


皇大神社

第62回伊勢神宮式年遷宮記念
皇大神社
上里町大字長浜字神田494
由緒
当社は、元は神明社とよばれていた。江戸幕府によって編纂された「新編武蔵風土記稿」長浜村の項に「神明社村の鎮守とす、村民持」と載せられている。また、それに続いて「今域青八坂稲見神社相伝えて延喜式神名帳に載たる古社なりと云、(中略)今は僅なる小社となりて村民の持なり」と記されている。
言い伝えでは、延喜式神名帳に載る今城青八坂稲見神社が当社地に祀られていて、いつのころか長浜下郷の長幡部神社に合祀され、その後に祀られたのが神明社であるという。
明治はじめの神社明細帳には「村社皇太神社祭神大日霊貴命創立年月日不詳と云えども社格は明治5年中入間県へ申立済」と載っている。 社名が神明社から皇太神社へと改められた。その後、合併により長幡村が誕生し、村社には、長幡部神社がなり、当社は無格社とされた。そのため明治41年に長幡部神社へ移転、境内神社として祀られた。この所の社殿などの建造物はそのまま残されており、昭和22年氏子の希望により旧地のここに遷された。
御祭神 大日霊貴命 (天照大御神の御名の一)
御神徳 地域の繁栄と人々の守護開運厄除商売繁盛

社頭掲示板



皇太神宮

長浜の地は神流川の右岸に位置し、中世には長浜郷に属していた。この長浜郷は江戸期に長浜村・長浜下郷・四軒在家・六所村・長浜上郷の六か村に分かれた。
 当社は元は神明社と号していた。『風土記稿』長浜村の項には、「神明社 村の鎮守とす、村民持」と載せられている。また、それに続いて「今城青八坂稲見神社 相伝えて『延喜式』神名帳に載せたる古社なりと云、(中略)今は僅かなる小社となりて村民の持なり」と記されているが、これに該当する神社は当地に存在しない。  口碑によれば、かつて当社地に稲荷社があったが、いつのころか長浜下郷の長幡部神社に合祀され、その跡地に祀られたのが神明社(当社)であるという。まあt、当社の西側に神田と呼ばれる一町歩余りの田があり、昔は稲荷社に献上する稲を栽培していたともいう。一説に、この稲荷社が『延喜式』神名帳に載る今城青坂稲実神社であったとの推測もされているが、明らかではない。
 明治2年に江戸期の長浜村・長浜上郷村・長浜下郷村・六所村の四か村が合併して新たに長浜村が成立し、同五年に当社は村社となり、社名を皇大神社と改めた。更に、明治22年に長浜村は長幡村の大字となり、同41年に当社は村社長幡部神社に合祀されたが、社殿などの建造物はそのまま残され、太平洋戦争後に旧地に遷座された。

埼玉の神社



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