延暦3年(784)に当地に来訪した伊賀国の阿保村の阿保朝臣人上が創立したという。 今木青坂稲実荒御魂神社は明治43年5月3日、字稲荷宿から境内社七社とともに阿保神社に合祀された。 |
阿保神社 當社は阿保朝臣人上の創立せしものにして、延喜式当國四十四座の一、則今城青八坂稲實神社なりと云傳ふ。朝臣は伊賀國阿保村の人なり。延暦3年(784)11月、從五位下に叙せられ、武藏介に任ぜらる。任地に來るや地を茲に相し、一城を築き、今城と称し、本國の地名を移して阿保村と云ふ。社號の依て興る所以なり。阿保、青、國音羽近し。故に式に青坂と証せり。其后治承4年(1180)阿保二郎丹次實光崇敬して、社殿を造営す。后建物頽破せしを以て、文政元年(1818)村民再建せしと云ふ。 神社明細帳 |
阿保神社 神流川右岸に位置する元阿保の地は、中世の阿保郷に比定され、丹党安保氏の本貫地とされる。丹党の秩父綱房の次子実光は元阿保に住して安保氏を称し、以後在所名を姓とする安保氏は鎌倉期から室町期に散見され、戦国期までつながっていく。地内の字上宿には、安保氏館跡と伝える地があり、現在その遺構は掘と推測される用水跡以外は確認できないが、範囲は掘に囲まれた300m四方の部分と考えられている。館跡のすぐ北西には当社が鎮座しており、更に館跡南西側には安保泰規が室町初期に建立したと伝える大恩寺跡が隣接する。 当社はその立地から丹党安保氏により鎌倉期以降に祀られたことが推測されるが、『明細帳』に載る由緒は更に古く、平安期の創建と伝え、「当社ハ阿保朝臣人上ノ創立セシモノニシテ延喜式当国四十四座ノ一則今城青八坂稲実神社ナリト云伝フ。朝臣ハ伊賀国阿保村ノ人ナリ延暦3年(784)11月従五位下ニ叙セラル任地ニ来ルヤ地ヲ茲ニ相シ一城ヲ築キ今城ト称シ本国ノ地名ヲ移シテ阿保村ト云。社号ノ依テ興ル所以ナリ。阿保青国音相近シ故ニ式ニ青坂ト記セリ。ソノ後治承4年(1180)阿保二郎丹次実光崇敬シテ社殿ヲ造営ス(以下略)」とある。これに見える阿保朝臣人上は『続日本紀』延暦5年(786)8月8日条に武蔵国国司としてその名が見える。『風土記稿』に当社は「六所明神社」と見えるが、明治期に阿保神社と改称した。 埼玉の神社 |
阿保神社 第62回伊勢神宮式年遷宮記念 阿保神社 神川町大字元阿保字上六所1 由緒 ここ元阿保の地は、中世の丹党阿保氏の本貫地とされる、丹党の秩父恒房の次子実光は元阿保に住み安保氏をとなえ、以後在所名を姓とした。安保氏は鎌倉期から室町期、さらに戦国期までつながっていく。字上宿には、安保氏館跡と伝える地があり、周囲は堀に囲まれた300m四方の部分と考えられている。館跡のすぐ北西には当社が鎮座、南西側には安保泰規が室町初期に違立したと伝える大恩寺跡が隣接する。 当社はその立地から丹党安保氏により鎌倉期以降に祀られたことが推測されるが、『武乾記』(根岸伊兵衛安永元年(1772)に載る由緒は更に古い。「六所明神は延喜式内の社なり。村老の伝に大古、阿保人上武蔵介の建立せし所なり。其後安保次郎實光「当国府中、六所明神を移し合祀せしと云。社名は今城青坂稲実明神なりと言伝はるを記す。古社なるべし。」と記載されている。 丹党と丹生社の関わりは、字関口の池上神社の「明細帳」に「往古元阿保村と一村たりしとき六所社丹生社同村にありしを天正5年(1577)3月分村の時 丹生社を本村の鎮守に分ち定め今の地に遷し祀る」とある。安保氏在住のころは丹党の人々の結束として元阿保で祀られていた。言い伝えでは、六所社の奥であったと言う。 当社は享保12年(1727)、神祇管領から「正一位六所大明神」の神宣を受けた。 風土記稿に六所明神社と載っているが、明治40年から字内の神社を境内に遷し、明治43年に阿保神社と改称した。 社頭掲示板 |