熊野神社
くまのじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】今城青八坂稲実神社 武蔵国 賀美郡鎮座

   【現社名】熊野神社
   【住所】埼玉県児玉郡神川町八日市 527
       北緯36度12分40秒,東経139度6分50秒
   【祭神】家都御子神 御子速玉神 熊野久須美神
        (合祀)倉稻魂命 菅原道真 若山咋命

   【例祭】10月19日 秋季例大祭
   【社格】旧村社
   【由緒】創立年代不明
       正徳3年(1713)7月正一位
       享保14年(1729)9月の再建
       明治5年に村社
       明治45年3月10日神饌幣帛料供進神社指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】元は村内字今城に鎮座

   【祭祀対象】
   【社殿】本殿春日造柿葺
       拝殿・幣殿・手水舎・社務所

   【境内社】八坂神社・山神社・諏訪神社・金鑚神社・社宮司社・天神社・稲荷神社

村内字今城から今の鎮座地である森下の地に遷座されたと伝えられている。


熊野神社

本社は往古より村中の氏神と称し、延喜式當國四十四座の一にして今城青八坂稲實神社なりと云ひ傳ふ。神階は往古は知れざるも、正徳3年(1713)7月正一位の神階を授けられ今其の宣旨現存す。神領は上古は明らかならざるも、徳川幕府の時代に地頭より除地四反五畝歩を寄附せらる。現在建物の本社は享保14年(1729)9月の再建にして、棟札を現存せり。又旧社地の村内字今城に鎭座ありしを、後に今の森下の地に奉遷したりと口碑に在り。

神社明細帳



八日市の獅子舞

昭和62年3月10日 町指定民俗資料
八日市ては、古くから「八の日」に物資の交換市が開かれていた。
延宝2年(1674)四代将軍家綱の時代に、この交換市で争いがあって大火となった。八日市の獅子舞は、この後で厄払いとして奉納したのか始まりと伝えられでいる。
獅子舞は、4月15日と10月19日に神主宅や白山神社で舞い、その後熊野神社に奉納されるが、古くは雨乞いの為に奉納されたこともある。
獅子は、法眼・女獅子・男獅子の三頭で、その外にカンカチ・笛方・歌方・万灯持ちの役割がある。
また、曲目にはぼんでん掛かり・笹掛かり・橋掛かりその外がある。
神川町教育委員会

社頭掲示板



熊野神社 御由緒

神川町八日市527
御縁起(歴史)
八日市の地名は、八のつく日に布が立ったことに由来するという。中世の鎌倉街道上道が南東の児玉郡八幡山町(現児玉町)から八日市の地内を北西方向に抜ける。
当社は八日市の村の鎮守として祀られており、主祭神は家都御子神・御子速玉神・熊野夫須美神のいわゆる熊野三神である。『明細帳』には『延喜式当国四十四座ノ一ニシテ今城八坂稲実ノ神社ナリト云伝フ」との一文が見える。口碑によれば、当社は村内字宮城から今の森下の地に遷座されたと伝えられており、かつては、この社名を号していたことをうかがわせる。また、『児玉郡誌』によれば、正徳3年(1713)に正一位の神階を授けられ、江戸時代に地頭から除地四反五畝歩を寄付されたという。
本殿は堂々とした春日造りで、壁面には上州花輪村(群馬県勢多郡東村)の石原吟八・伊平次の二名の彫物屋による精巧な彫刻が施されている。其の棟札には「奉造正一位熊野大権現御本社」「享保第14年酉天(1729)9月吉祥日」「別当大覚院」などが記されている。
明治初年の神仏分離を経て、明治5年に村社になった。
別当の本山修験大学院は天文2年(1533)に没した権大僧都明王法印を始祖とし、神仏分離により復職して真仁田姓を名乗って神職となり、現在に至っている。
御祭神
家都御子神・御子速玉神・熊野夫須美神

社頭掲示板



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