「山神社」「山神大権現」と称されていた。 楡山神社の論社ではあるが由緒等不詳。 |
久保島大神社 久保島大神社鳥居の由来 所在地 熊谷市久保島471−2 平成16年12月解体した際に、柱のほぞから願主と大工の名前とともに、嘉永2己酉年(1849)4月吉日の建立を示す墨書が発見されました。 建立以来156年ぶりに立て替えられた鳥居は、明神鳥居の中でも両部鳥居と呼ばれ、笠木が反り返っている曲線構造です。柱は転びと言われ少し斜めになっており、補助の控柱で支えているのが特徴外です。 世界遺産で知られる厳島神社の鳥居と同じ型で、熊谷市内でも木造鳥居として極めて重要です。 平成17年4月15日 社頭掲示板 |
久保島大神社 久保島大神社 (熊谷市久保島471(久保島字山神)) かつて、熊谷市近辺には八島八河原といって、「島」と「河原」の字のつく地名が八か所ずつあった。当社の鎮座する久保島もその一つで、江戸時代までは窪島とも書かれ、古くは東西二村に分かれていたという。(久保島を東西二村に数えなければ「八島」にならない) 『風土記稿』久保島村の項に、「村の鎮守」として、山神社と神明社の二社が挙げられているのも、このように村が東西に分かれていたころの名残で、観照院が別当を務める山神社は西久保島の鎮守、大光院が別当を務める神明社は東久保島の鎮守であった。このうち、山神社については『延喜式』に見える楡山神社であるとの伝え(『風土記稿』はこれを疑問視し、「楡山神社は原ノ郷にある熊野社ならん」としている)もあり、延享3年(1746)には極位を受け、正一位山神大権現と称した。なお、この時の宗源祝詞には、瓜と夕顔の種を播くことの許しを乞う一節が見え、興味深い。 明治に入ると、どんな理由からか、地内にあった尊乗院持ちの聖天社が二柱神社と改称して村社になり、山神社・神明社は共に無格社にとどまった。しかし、明治42年、政令により、一村社とすべく、無格社ながら規模が最も大きい山神社に、二柱神社及び神明社をはじめとする無格社七社をそれらの境内社と共に合祀し、山神社を村社に昇格の上、改称して、ここに久保島大神社が誕生したのである。 埼玉の神社 |
山神社 村の鎮守なり、當社は【延喜式】内楡山神社なりなどいへど疑ふべし、楡山神社は原ノ郷にある熊野社ならん、見るべし。別當観照院。天台宗、埼玉郡上中條村常光院末、阿彌陀寺と號す、開山榮順正保3年10月寂せり、本尊阿彌陀。 神明社 是も村の鎮守なり。別當大光寺。同末(天台宗、埼玉郡上中條村常光院末)、明珠山願成院と號す、開山秀海寂年を傳へず、本尊薬師。 諏訪社二宇 吾妻社 大天白社 稲荷社二宇 蔵殿社。以上七社観照院持。 八幡社 大光院持 聖天社 愛宕社 稲荷社 以上三社尊乗院持。 新編武蔵風土記稿 |