三尻小学校北に隣接して鎮座する。 当社は、甕尻郷が鶴岡八幡宮領となり、その遙拝のために勧請された社である。 現在熊谷市三ケ尻 671に鎮座する田中神社は明治末年、当社に一時合祀された。 |
八幡神社 熊谷市三ヶ尻八幡神社社叢ふるさとの森 昭和59年3月30日指定 身近な緑が、姿を消しつつある中で、貴重な緑を私達の手で守り、次代に伝えようとこの社叢が、「ふるさとの森」に指定されました。 この「ふるさとの森」八幡神社は、天喜4年(1156)、鎮守府将軍源頼義と、嫡男八幡太郎義家が、前九年の役出陣にあたり、特にこの地に兵をとどめ、戦勝を祈ったところであります。 ここは、平成12年に新装となった本殿・拝殿を中心として、多くの大樹が緑豊かな社叢を形成し、中には、義家が愛馬をつないだといわれる杉の巨木も,神木として時を語っております。 林相は、主に、スギ・ヒノキ・スダジイ・モミ・カシなどから構成されています。 平成16年3月 埼玉県熊谷市 社頭掲示板 |
八幡神社 篆額 鶴岡八幡宮 宮司 吉田茂穂 当社の創建は、第70代後冷泉天皇の御宇天喜4年、鎮守将軍源頼義・義家父子奥州出陣の砌、当地に旌旗を停め戦勝を祈願したことに溯る。寿永2年後の征夷大将軍源頼朝、当時の三ヶ尻郷を相模国鶴岡八幡新宮若宮御領として寄進されてより、当社は同宮の分祀として源家武士の崇敬篤く、更には三ヶ尻の里の総鎮守として庶民の尊崇を集めていたのである。 寛永6年びは時の領主天野彦右衛門深く当社を崇敬し、八幡型大鳥居一基と鷹絵額五枚を献上している。天保年間、三河田原藩家老華山渡辺登、故あって当地に滞在し著した訪甕録は、当時の深厳な境内と総彫刻極彩色の本殿の威容を記し、往時の地域住民の崇敬深きを伺わせているのである。下って昭和20年、郷社列格の栄に浴し、昭和63年嘗て華山も紹介した明和5年建造の本殿が熊谷市の文化財に指定された。 かくして氏子はもとより、近郷近在からの崇敬弥増し、神威は益々高まった、平成4年には由緒深き本殿の尊厳を維持するべく、覆殿改築に着手、工事は順調に進捗していた。ところが同年10月20日夜半、突然原因不明の火災に遭い、完成を目前としていた覆殿はもとより本殿以下全ての社殿を焼失するところとなった。まさに青天の霹靂、関係者は茫然と自失寸するばかりであった。しかし一同悲しみを乗り越え社殿再建への思いに結集し、八幡神社御社殿復興準備委員会を結成、計画の立案にとりかかった、平成6年には予て要望していた第61回伊勢神宮式年遷宮の古殿舎撤去古材譲与も聞き届けられろところとなり、約56石の桧材が平成6年7月の佳日を卜し遙か伊勢路より搬送された、また、本社鶴岡八幡宮には物心両面に亙る支援を忝のうし、社殿再建への気運はいやが上にも加速した、平成7年八幡神社御社殿復興奉賛会を設立、伏して広く浄財を募ったところ、赤誠溢れる氏子崇敬者等の暖かい協賛を賜り、遂に平成10年5月15日天高く響く着工の槌音を聞いたのであった。幸いにも本社との御神縁により卓越せる技術を誇る建設業者に工事を依頼し、加えて地元建築業者の協力を仰ぎつつ、本殿・拝殿・透塀の改築につき、懸案の境内整備事業も完了した。時恰も皇紀2660年、御祭神応神天皇降誕1800年の佳年であった。 社殿完成により早一年、新緑目にしみる神域に思いを新たにし、いささか慶事の経緯にふれその概略を石に刻し、併せて赤誠を捧げし各位の芳名を後世へ伝えんとする次第である。 平成13年12月吉日 八幡神社宮司 猿田宣久謹書 社頭石碑 |
八幡神社 八幡神社(熊谷市三ヶ尻2924(三ヶ尻字八幡)) 昭和59年に県から「ふるさとの森」の指定を受けた美しい杜に囲まれて鎮座する当社は、源頼義・義家親子が天喜4年(1056)の奥州征伐の際、この地に本陣を設け、鎌倉の鶴岡八幡宮の遥拝所を建てて戦勝を祈願したことに始まる。当社の社殿が東北を向いているのは、こうした創建の事情によったものであり、隣接する拾六間の地内には義家の設けた陣屋の跡地もある。また、当地は、寿永2年(1183)には鶴岡八幡宮の社領となっており、寄進状が現存する。 江戸時代の当社の状況については、『風土記稿』三ヶ尻村の項に次のように記されている。 八幡社 村の鎮守なり、神職の伝へに当社を、延喜式内田中天神なりといへり、されど証とすべきこともなし、此地は古鶴岡八幡宮の所領にして、殊に文書にも村名の条に載せたる如く、寿永2年鶴岡八幡社領となりし地なれば、彼社遥拝のため勧請せしものにて、其頃より鎮座なることは知るべし、田中天神のことは延命寺の天神にも云処なれば、何れが正きを知らず。 この文中に出てくる田中天神とは、『延喜式』に幡羅郡四座の一つとしてその名が見える田中神社のことで、当社、三ヶ尻地内にある田中神社、川本町田中の知形神社の三社が論社とされている。しかし、未だにいずれの社が延喜式内の田中神社なのか、判然としていない。 一方、渡辺崋山が天保3年に著した『訪甕録』によれば、当社は、「上野ニアリ、松林蒼欝境頗幽邃 廟ノ四周皆彫鏤金碧屋スルニ虻寺茆次ヲ以テス、又前二拝殿一宇ヲ起ス迸リテ舞台ヲ設ク。此廟金毘羅ト王子稲荷ヲ拝祀ス、神主篠田中務(中略)神祭ハ3月8日15日ナリ、村中集リテ相撲ヲナス。」と記されており、当時の境内の姿や祭りの様子を知ることができる。また、市指定文化財の本殿は明和5年(1768)、拝殿は天明2年(1782)の建造で、崋山来訪当時の姿を今に伝えている。崋山も特筆している本殿の彫刻は実に壮麗なもので、三ヶ尻出身の名工・内田清八の作である。 明治5年6月に村社となり、同41年11月、字八幡鎮座の神明神社と字中鎮座の天神社(いずれも村社)を合祀する。また、これを機に、村内の各地に散在していた無格社の多くが当社の境内に集められた。大正12年には東宮殿下御慶事記念として拝殿の改修と社務所の新設とが図られ、いずれも同14年に竣工している。 本殿内には幣束や神像と共に棟札数枚が保存されており、往時の祭祀状況や神職の名を知ることができる。このほか社務所には寛永6年(1629)奉納の五枚の鷹絵額、同3年7月奉納の社号額、安永3年(1774)奉納の古風な神鏡などが保存されており、当社の歴史と信仰を知る貴重な史料となっている。 埼玉の神社 |
八幡社 村の鎮守なり、神職の傳へに當社を、延喜式内田中天神なりといへり、されど證とすべきこともなし、此地は古鶴岡八幡宮の社領にして、殊に文書にも村名の條に載たる如く、寿永二年鶴岡八幡社領となりし地なれば、彼社遥拝のため勧請せしものにて、其頃より鎮座なることは知るべし田中天神のことは延命寺の天神にも云處なれば、何れが正しきを知らず。 神楽殿。 金毘羅社、王子稲荷を合祀せり。 新編武蔵風土記稿 |