田中神社
たなかじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】田中神社 武蔵国 播羅郡鎮座

   【現社名】田中神社
   【住所】埼玉県熊谷市三ケ尻 671
       北緯36度8分58秒,東経139度19分19秒
   【祭神】武甕槌命 (配祀)少彦名命 天穗日命
       『神名帳考証』(延経)天津彦根命
       『式社考』『神社要録』『大日本史』武甕尻命
       『神社命附』『風土記稿』『武乾記』少彦名命・天穂日命

   【例祭】1月25日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】由緒不詳
       明治5年6月村社

   【関係氏族】
   【鎮座地】明治末年三尻字新堀新田の八幡神社に一時合祀
        その後まもなく、現地に復帰再興

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「天神社・天神宮・田中天神社」と称していた
   【社殿】本殿神明造
       拝殿

   【境内社】

荒川の扇状地内。四方を水田に囲まれている。もとは天神社。また水田の中にあるので田中天神といわれるようになったという。
 境内に要石があり、磐座とされている。天神とよばれるが菅公(菅原道真)の天神ではなく、古代以来の天津神天神信仰の天神であろう。
明治末年、三尻字新堀新田の八幡神社に一時合祀されたが、その後まもなく、氏子の申立によつて現地に復帰再興した。
神体として瓢箪形の石三個と金幣三本を本殿に祀る。


田中神社

抑抑武蔵国44座の1社とたたえ奉る延喜式内田中神社の御祭神は武槌命少名彦名命天穂日命を奉祭し土人の古き伝説には田中天神と呼び菅原道真公併祀の鎮守にて家内安全交通安全学問高揚の神として氏子の崇敬今に壮んなり。
ここに御影石の大鳥居を御奉献そ大神の御安泰と氏子の守護と繁栄を御祈念申し奉る。
右側に埋存せる天然石は常陸国鹿島の要石と同様の伝説を存す、又武蔵国幡羅大里榛名の三郡の彊域を示す境界石として永遠に伝えん。

社頭掲示板



田中神社

田中神社(熊谷市三ヶ尻671(三ヶ尻字社裏)) 古代の三ヶ尻は、荒川の川筋に当たっていたため、上流からの土砂の流入による肥沃な土地であった。このため、早い時期から稲作が行われていたと思われ、地名の三ヶ尻もこれに関係し、古くは甕尻と書いていた。これは、地内にある狭山と呼ぶ山が、春と秋に田の神を祀るための酒を醸す大甕を伏せた形に似ているところからきたものという。また、当地には三ヶ尻古墳群があり、ここから有力な地方豪族の存在をうかがわせる銀象嵌の施された太刀が出土している。
当社は式内社であると伝え、『風土記稿』は水田の中にあるところから田中天神と称し、『延喜式』神名帳に、武蔵国幡羅郡田中神社とあるのは当社のことである。祭神は少彦名命と天穂日命であり、別当は新義真言宗の延命寺である、と載せている。
当社の境内に要石と呼ぶ石があり、地震を鎮めるという。この石は神の宿る石、すなわち磐座であろう。古代には、今日のように社殿に神を不断に祀るのではなく、祭りの時のみ岩や木に神の降臨を仰ぐものであった。当社の古い姿は、この要石にあると考えられる。また、天神の呼称も天つ神の天神で、菅公信仰よりも古いものである。
当社は、現在は小さな社であるが、渡辺崋山の『訪??録』にも「古代ハ大社ナルヨシ」とあるように、昔は大きな社で参道も800mほど離れた庚申塚付近まであったという。(

埼玉の神社



天神社

水田の中間にあるをもて田中天神といへり、【延喜式】神名帳に、武蔵國幡羅郡田中神社は別當社のことにて祭神は少彦名命・天穂日命を祭れりと、別當傳へり、外に正しき證據を知らず。

新編武蔵風土記稿



地震封じの伝説"要石"

地震封じの伝説"要石" 熊谷の田中神社境内から先端部発見 「どこまで掘っても掘り起こせない」
 民間信仰で地震を封じるとされる「要石」とみられる石が、熊谷市三ケ尻の田中神社(篠田宣久宮司)の境内から見つかった。要石の言い伝えが残る場所を研究者が掘ったところ、巨石と思われる石の先端部分が現れた。茨城県の鹿島神宮などの要石は有名だが、県内で確認されたのは初めてという。
要石は地中に埋まった巨石の先端部分だけが露出したもので、地震を起こす大ナマズを地中で押さえつけているとされる。茨城県の鹿島神宮や香取神宮の要石が有名で、江戸時代の安政の大地震後にナマズと要石を描いた鯰絵(なまずえ)が大流行した。
県立歴史と民俗の博物館の学芸員の大久根茂さん(58)が、埼玉県神社庁発行の「埼玉の神社」を読み、田中神社の要石に関する記述を見つけた。6月末に神社を訪れ、要石が埋没しているとされる石囲いを確認。8月19日、篠田宮司や氏子、熊谷市教育委員会などが立ち会い、大久根さんらがその場所を掘った。
50cmほど掘ったところで、石の先端が出現。さらに十数cm掘り進めたところで土が硬くなり、それ以上掘るのを断念した。露出した石は自然石とみられ、形状は三角すい。一辺が30cmほど。石の大部分が地中に埋没していると思われるが、全体の大きさは不明だ。
田中神社は、平安時代の延喜式神名帳にも記載されている古社。1927(昭和2)年に同神社が埼玉県神職会に提出した神社調査書には、この要石について「常陸国(茨城県)鹿島の要石と同様の伝説を存す」と記されている。また、社地の宮島廓と鹿島神宮との関係をうかがわせる伝説にも触れている。
ただ「新編武蔵風土記稿」など江戸時代の史料には、田中神社の要石の記述はなく、明治時代末の「三尻村郷土誌」では「(幡羅、大里、榛沢の)三郡の境石」としてのみ登場している。「地震との関係についてはさらに調査が必要」(熊谷市教委)という意見もある。
宮司の篠田さんは、父で先代の宮司から要石のことを聞いていた。「どこまで掘っても掘り起こせない、掘ると目がつぶれると言われていました」。過去に三ケ尻では地震による大きな被害はないという。「この石のおかげで守られているのかもしれませんね」とほほ笑む。大久根さんも「要石は庶民の地震に関する信仰を表す貴重な史料」と話している。

埼玉新聞2010年8月27日(金)



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