熊野大神社
くまのだいじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】白髪神社 武蔵国 播羅郡鎮座

   【現社名】熊野大神社
   【住所】埼玉県深谷市東方1709
       北緯36度11分44秒,東経139度18分43秒
   【祭神】伊弉冉命 速玉男命 事解男命
   【例祭】10月15日 秋季例大祭
   【社格】
   【由緒】由緒不詳

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「熊野」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿・神楽殿・社務所・手水舎

   【境内社】神明神社・八幡神社・諏訪神社・雷電神社・浅間神社
        手長男神社・八坂神社・猿田彦神社・鬼林稲荷神社
        伊奈利神社・阿夫利神社


、「延長5年上野國碓氷郡の熊野本宮より奉遷し」とあり、現在群馬県と長野県の境にある「熊野神社」からの勧請かと思われる。


由緒

古くより小さな社があり、東方という地名もこの社から生まれました。天文(1532〜55)の頃、深谷上杉三宿老、皿沼城主岡谷加賀守清英がこの地方を領し、熊野大神社を深く崇拝し、社領を寄進し、今でも熊野免という年貢を免除した土地があります。同じく三宿老の一人、上野台領主秋元但馬守景朝、その子越中守長朝は、当社が上野台の館の東北にあたっているので、城の守りとして崇敬し、天正年間(1573〜92)に当社の社殿を造り、現在本殿正面の桁に家紋が彫刻されてあります。天正18年(1590)徳川家康、江戸入城後、松平丹波守康長が東方城主となりましたが、当社を信仰、社領を免除しています。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




熊野大神社

深谷市東方1708−1
当地は古くから開かれた土地であり、地内は家型埴輪が出土した古墳期の森末古墳、奈良期から平安期にかけての堂明様遺跡などが知られています。当社の創建について、社記に−延長5年(西暦927年)この地に枇杷の木を棟木にして小祠を建て上野国碓氷郡熊野本宮より奉遷し東方村と号す−とあります。
御祭神は伊邪那美命・速玉男命・事解男命の三柱です。
現在の本殿は上野台の領主萩元但馬守景朝、その子秋元越中守長朝が、当社が館の東北にあたっている事から城の守り神として崇敬し、天正年間(西暦1573年から92年)に当社に社殿を寄進したものであり、本殿正面の桁に秋元家の家紋の彫刻が施されております。
文政2年と平成11年の大修理を経て今日にいたっております。本殿は昭和34年11月3日に深谷市の指定文化財に指定されました。
中仙道から一の鳥居をくぐって約300mの参道に入ると両側に奉納された三十九基の石灯籠が続き二の鳥居を過ぎ四百五十二本の玉垣に囲まれた境内地に進むと右側に樹齢350年のご神木の大欅がそびえています。
三の鳥居をくぐり本殿西側を進むと、氏子の皆様に献木していただいた450本のヅツジ林があります、更に歩くと北に上毛三山を一望出来る大パノラマが開けます。
主な祭事は春の大祭(4月15日)・秋の例大祭(10月15日)です。
幡羅小学校児童による浦安の舞いの奉納・入木節の奉納など次代を担う人々の参加は心強いものがあります。又、初詣は年ごとに参拝者が増えており大変な賑わいです、大晦日に「おたきあげ」の火を囲んで甘酒を戴きながら新年を祝う人々の輪は、平和のありがたさを実感させる美しい光景です。元旦は社務所で初釜を催しております、気取らない茶席です新年はぜひおいで下さい。
当社の氏子数は850戸、また崇敬者は2000人位です。
平成15年9月
宮司 栗原時雄

社頭掲示板



熊野大神社

東方熊野神社碑
従四位子爵秋元興朝篆額
日本武尊之征蝦夷而還也自甲斐北歴武蔵上野西逮于碓日坂日本武尊顧念弟橘媛登碓日嶺東南望三□吾嬬者邪故称山東諸国曰吾嬬国古老伝云東方之名起此時蓋以吾嬬東訓相通也其真偽雖不可知伝而至今有不□然者矣村中有社祀熊野神社記敢逸無所考伝云嶬峩朝自碓日嶺従祀□至足利幕府之時陸奥守上杉憲英為上野守護管領奥州軍務居固庁鼻憲英曾孫右馬助房憲康正年中築城于深谷移焉其孫次郎憲賢其子左兵衛佐憲威皆居深谷当是時称上杉家臣岡谷秋元井草氏曰深谷三宿老東方乃係上舗免城主岡谷加賀守清英所領其同寮上野基城主秋元但馬守景朝祈戦捷於此社軍果有功回再興社殿社傍樹木蔚然成林皆歴数百年矣天正十八年関白秀吉攻小田原憲□子三郎氏憲援北条氏保小田原城降氏憲失地徳川家康徒封関東八国開府於江戸也封松平丹波守康長子此地住東方城慶長七年従封古河夜城廃領賜其地于麾下応永以後□雖換其主非時興威衰神社依然称曰鎮守征清之役郷人応徴者臨発皆□祈其冥護凱旋之後有志者與邑人相謀醵金一千五百余円以銅瓦換茅葺侑華表壊造石旗粋修理社殿奉賽戦捷拝祈五穀豊穣邑土平穏於是神徳□□照光□此地今属埼玉県管下□□□□郡今改大里郡余者清英十二世之孫也□□人来述古老伝略誌熊野社来由云
明治二十九年十二月
従六位岡谷繁実撰文 森東古幹 書

社頭石碑



熊野社

村の鎮守なり、或説に當社は祭神伊弉册尊・素戔嗚尊・猿田彦命にて、延喜式内白髪神社なるを、いつしか熊野社と改めしなどいへど、社傳には其沙汰なく、且土人の口碑にも殘らざれば、いかがはあらん、又式内神社考には東別府村春日社を式内白髪神社と載たれど、外に據なければこれもいかがはあらん、兎に角定かならず、

新編武蔵風土記稿



熊野大神社

当地は、JR高崎線籠原駅の北西2km、櫛挽台地の北端にある。
東方の地名について、『明細帳』は「伝説に、日本武尊が東征に際し、当地を過ぎる時、里人に東の方は何れに当たるかと尋ねられ、東方の地名になった」と記し、また、境内の「東方熊野社碑」には、日本武尊が、蝦夷を平らげての帰途、群馬県碓井峠に差し掛かった時、弟橘援を偲ばれて、東南を望み、三嘆して「吾妻はや」と言われ、これから当国を東国と呼ぶようになり、また「国の東にある当地を東方と呼ぶのもこの時に起こる」とある。いずれにしても、当地は古くから開かれた所であり、地内には、家形埴輪が出土した古墳期の森吉古墳、奈良期から平安期にかけての堂明様遺跡がある。
当社の創建について、社記に「延長5年(927)この地に枇杷の木を棟木として小祠を建て、上野国碓氷郡熊野本宮より奉遷し、東方村と号す」がある。
当社創建にからむ問題として、当社が式内社白髪神社ではなかったかとする説が『大日本地名辞書』などにある。この説は古くからあったらしく、『風土記稿』は、当社を「熊野社 村の鎮守なり、或説に当社は祭神伊弉冊尊・素戔嗚尊・猿田彦命にて、延喜式内白髪神社なるを、いつしか熊野社と時を改めしなどいへど、社伝には其沙汰なく且土人の口碑にも残らざれば、いかがはあらん」と記している。このほかに『武蔵国式内四十四座神社命附』が、当社を式内社としている。
この問題は、明治・大正になっても続き、行政文書、大正5年7月29日に、埼玉県にあてた内務大臣一木喜太郎の「熊野大神社社号変更並祭神増加の件聴届難し」がある。これは、当地が清寧天皇の御名代白髪部にかかわると論証し、当社を延喜式の古訓による白髪神社と改称したい。更に、祭神に白髪武広国押稚日本根子尊(清寧天皇)を増加したいと、大正5年5月10日付で社掌栗原逸作が提出した願書に対するものである。
また、この時、埼玉県神職会が、県知事昌谷彰の諮問に答え、祭神は清寧天皇か、又は『新撰姓氏録』に見える白髪王ではないかとの見解を呈し、白髪主は開化天皇の皇子彦坐王四世の孫であり、彦坐王の子孫は東国と深い関係がある、としている。
更にこの式内社としての社名変更の発端を思わせる「幣帛」が、内陣に置かれている。これは「延喜式内白髪神社幣帛、神祇管領」と記され、これを納める筥には「惣鎮守白髪神社・熊野大神幣帛、幡羅郡大社東方村、明治3庚午年12月改、天児屋根命末孫当社神主藤原朝臣青木興美」と墨書されている。
なお、吉田東伍『白髪神社擬定私考』に、「熊野の肩額二面あり、一は熊野大神と正面に刻し、右肩に白髪神社と細刻す、造立年代不詳なれど、百年は経たものである。一は正一位熊野大権現と題す」とあるが、現在確認できない。
今日では、この式内社白髪神社は妻沼の聖天山歓喜院説が有力である。当社が白髪神社であったか否かはさておき、棟木に枇杷の木を使った伝説や当地開発を考えると当社の創建もかなり古く設定できる。
享保9年(1724)の「正一位熊野大権現」の宗源宣旨と、同祝詞が先の『擬定私考』に残されている。
この祝詞には「尊神の御嫌物と伝て御氏子等の中に黍を作り食する事を悪賜ふと是定て往昔禁賜ふ故有む然とも今極位を捧奉る神徳に依て後今以往此事を免賜ひ」とあり、往時、当地に黍に対する禁忌があったことをうかがわせる。
当社の社殿造営は、前述したように、延長5年(927)との社伝があり、更に、深谷城上杉氏の家臣秋之景朝・長朝父子により、天正年間(1573-92)に造営が行われたとも伝えている。現在の社殿の造営は、内陣に納められた旧神鏡の台裏に「本ハ安氷7(1778)春青木大和守本穏代造之、後破損再興文政2己卯年(1819)10月下旬、神主青木大和守源信網代口口」の墨書があり、更に、本殿の扉金具に「安永9年庚子(1770)12月吉日、金物施主川下り柴崎六之助」と刻まれているところから、安永7年から9年にかけて建立され、文政2年に修理が行われたものであろう。
明治42年に地内の五社を合祀し、大正13年郷社となった。

埼玉の神社



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