妻沼小学校北に鎮座する。 当社の周辺は利根川の氾濫原であつて、古社の鎮座地としては不適当である。しかも当社を祭る東岡部落はいわゆる近世村落であり、村の形成と共に鎮守として何処よりか勧請したものと思われる。 江戸時代、東岡部落の形成にともなつて、大我井の森から勧請された社であろう。 |
白髪神社 祭神 白髮武広国押稚日本根子命(清寧天皇)・天鈿女命・猿田彦命 由緒 承和8年(1086年前)2月17日創立 荒井右門太郎貞家釋教與上人を祭主に請じて同姓鎮護の守護と崇 め奉る、古へは大社にして神領も一庄に及び、宮地も広く神饌も莫大なりき。而して四方に鳥居ありしが、天慶の兵乱にて宮領も荒毛し宇社も一つとなれり。然れども往古より社免御寄付あり、因って禮奠聊怠慢なく天下泰平、国土安穏、五穀豊穣のご祈祷怠らず勤行せしめしものなり。 醍醐天皇延喜5年12月日本国中3132座を延喜式内の神社と撰ばせ給いし時本社は其の一に加入せられたること旧記に詳なり。 妻沼町誌 |
白髪神社 妻沼の地は、かって利根川の乱流地帯であった。 口碑によると、利根川が繰り返し流れを変えるうちに、上下に同形の大きさの沼が生じ、上に男体様を祀っていたので「男沼」、下に女体様を祀っていたので「女沼」と称するようになったという。一方、妻沼聖天様宮の縁起によれば、昔伊弉諾・伊弉冉の二柱の神の鎮座により、女沼・男沼と称したという。 いずれにしても、当社の鎮座地の小名である女体は、この「女沼」に由来するものであろう。一説に、当社は「延喜式」神明帳に載る幡羅郡四座のうちの一座「白髪神社」で あると伝える。これは「風土記稿」幡羅郡の中に白髪社が当社一社だけであることをその論拠としている。しかし、地形的にみて低地である現在地に社が奉斎されたとは考えにくく、後に他所から遷座してきたものと推測される。 これについては「大日本史」の「白髪神社 今妻沼村に在り、白髪明神と称す。古へ大我井森に在り、後今の地に遷る」との記事が参考になろう。大我井の森とは、当社鎮座地南方の微高地にある聖天山歓喜院の境内一帯を指す。あるいは、女体様が座す女沼を切り開いて耕地となし、村落を形成して行く中で、村鎮守としての稲荷神社が祀られ、更に、大我井の森から白髪神社が遷座されたのであろうか。なお、白髪神社の創建には、清寧天皇の白髪部とのかかわりが考えられる。 埼玉の神社 |