三島神社
みしまじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】稲之比売神社 武蔵国 男衾郡鎮座

   【現社名】三島神社
   【住所】埼玉県大里郡寄居町赤浜1973
       北緯36度6分45秒,東経139度15分39秒
   【祭神】大山祇命 木花開耶姫命 少彦名命
   【例祭】3月27日 例祭
   【社格】
   【由緒】由緒不詳

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       拝殿・社務所

   【境内社】稲荷神社・神明神社・八坂神社・琴平神社・天満天神社

平地の小社。児童公園・集落センターが併設されている。


町指定文化財

指定 昭和37年12月1日
所在 寄居町大字赤浜(三嶋神社)
この鰐口は、塚田地区の鎮守である三嶋神社の御神宝として伝えられるものです。製作当初から本社に奉納されたものと考えられますが、本社に伝わる『武州男衾郡塚田宿三嶋宮鍔口記』によれば、一時期何らかの事情によって遺失したものが、江戸時代の宝暦9年3月に秩父郡贄川村(現荒川村)の山中から偶然に掘り出され、本社に戻されたとされています。
鋳銅製で、直径19.9cm、厚さ6.9cmを測り、上部左右に耳(釣手)、中央両脇に目を配して、下半部側面には唇状の張り出しがめぐっています。釣手は片面交互式のもので、正面からみて左が表側の型から、右が裏側の型から造り出されています。釣手と張り出しの造りが薄く、また鼓面の膨らみが低平で、肩の張りも水平に近いなど総じて古格のある姿です。
鼓面は表裏ともに同じ文様で、三重及び二重の隆帯文によって外区、内区、撞座区に分けられますが、表面外区の左右に「武蔵国男衾郡塚田宿三嶋宮鰐口 応永二年乙亥三月廿七日」の銘文が刻まれています。
南北朝末期から室町初期に、当地を本貫地として関東各地に梵鐘などの作品を遺した鋳物師「道禅」に代表されるいわゆる塚田鋳物師の存在が知られますが、この鰐口も様式・枝法等から道禅もしくはこの工房によるものと考えられます。
荒川の渡河点という要衝にある塚田の地は、中世には鎌倉街道の宿場として、「塚田千軒」と呼ばれるほどに栄えたと伝えられます。この鍔口は、中世の信仰や職、そして社会背景を物語る資料として貴重なものです。
平成13年3月
寄居町教育委員会

社頭掲示板



三島神社

荒川右岸に位置する塚田の地は、「風土記稿」に赤浜村の小名の一つとして載せられており、「古別に村落をなせしとぞ、鎌倉繁栄の頃は宿駅を置し地ならんと云、既に当所三嶋神社応2二年(1395)鰐口の銘に、武蔵国男衾郡塚田宿と彫たり、前に云鎌倉の古街道は、ここに残れり」と記されている。また「塚田は鎌倉街道の宿駅として栄え、塚田千軒町の名で呼ばれていた」との口碑も残る。
 当社の創建は、その立地から考えると、鎌倉幕府の開設以来、幕府から特別の崇敬と保護を受けた伊豆の三嶋神社の神を信仰した当地の土豪が行ったのであろう。当地は、塚田千軒宿と呼ばれた大規模な駅があり、鎌倉街道の要衝であったことから、ここを固めた土豪と幕府とは深い結び付きがあったと考えられる。また、その土豪が実力をつけるに至った背景には、荒川の川砂を利用して鋳物を製造する鋳物師集団が当地に存在していたことが挙げられよう。鋳物師集団の活動の足跡については、鎌倉期は明らかではないが、安房国清澄寺の明徳3年(1392)の銅鐘に「大工武州塚田道禅」と見え、南北朝期の活動が知られる。当社に奉納された鰐口(径19.9cm)もその年紀から当地の鋳物師によって作られたものであろう。ちなみに、地内では多量の金糞が発見されているほか、荒川対岸の黒田では「たたら」と呼ばれる製鉄溶鉱炉の跡も発掘されている。
 大山祇命・木花開耶姫命・少彦名命の三柱を祀る当社は、氏子からは「女の神様なので、安産の御利益がある」と語られている。
 祭りは、元旦祭、2月の初午祭、3月27日の例祭、7月25日の八坂祭、10月17日の秋祭りの七つである。
 例祭は、鰐口の「応永2年乙亥3月27日」銘からもわかるように、鰐口を作った日を祝う由緒ある祭りと伝えている。このため祭日を変更せずに現在に至っていると伝える。
 かつて塚田千軒町と呼ばれて栄えた当地は、「風土記稿」に「三島社 小名塚田にあり、民戸十八軒の鎮守にて、其氏子のものの持とす」と記されるように、江戸期には既に小さな村落となっていた模様である。その時代は不明であるが、塚田の地は一度焼き払われたとの口碑があり、そのとき衰微したものであろうか。
 氏子の間には、鰻を食べてはいけないとの禁忌がある。このため、土用の丑の日でも当地の人々は鰻を食べることは希であるという。また、古くはどこの田にも鰻が棲んでおり、氏子が農作業などの際にこれをつかまえると「神様のお使いだから」と言って、当社の境内の神池に放したものであった。
 このほかに、地内できゅうりを作ってはならないとの禁忌がある。しかし太平洋戦争中の食料不足からやむなく栽培することになり、当社で神職に禁忌の解除祈願を行ってもらい、以後、きゅうりが出来ると、その初物を神社に供えてから食べるようになっている

社頭掲示板



鰐口

県指定文化財
鰐口 一口
指定 平成16年3月23日
所在 寄居町大字赤浜(三嶋神社)
この鰐口は、鋳銅製で直径19.9cm、厚さ6.9cmを測り、上部左右に耳(釣手)、中央両脇に目を配置し、下半部側面には唇状の張り出しがめぐる。また、鼓面の膨らみが低平で、肩の張りも水平に近く、目や唇も薄く造られており、総じて古格を示している。
鼓面外区の左右に、『武蔵國男衾郡塚田宿三嶋宮鰐口應永2年乙亥3月27日』の銘文が刻まれており、この銘文から、中世に鎌倉街道上道の宿駅であった塚田宿の三嶋神社に伝来したもので、応永2年(1395)に奉納されたこと、当時すでに塚田が「宿」と呼ばれる集落を形成していたことなどが分かる。
さらに、当時この地に「道禅」を代表とする塚田鋳物師の存在が知られており、この鰐口も様式・技法等から道禅もしくはその工房によるものと考えられる。
この鰐口は、県内にある室町初期の稀少なものの一つであり、室町期の形式を確立しようとした基準的作例といえる。
平成21年3月
埼玉県教育委員会
寄居町教育委員会

社頭掲示板



ヤブツバキ

町指定天然記念物
塚田三嶋神社のヤブツバキ
指定年月日 平成19年1月30日
所在地 寄居町大宇赤浜字後塚田1973
ヤブツバキは別名ヤマツバキともいい、ツバキ科ツバキ属の照葉樹林種で、常緑高木である。
社殿の左側にヤブツバキは三本あり、指定樹は中央に位置する株で、樹高13.8m、目通り1.35m、根回り3mである。
近くの杉の影響で、樹冠は北半分がほとんど無く、根元には腐食による穴が幹を貫通しているものの、樹勢は良好な巨木である。
なお、両脇のヤブツバキは指定には至らないものの、巨樹であり、指定樹とともに、大切に保護したい。
平成20年3月
寄居町教育委員会

社頭掲示板



三嶋神社

荒川右岸に位置する塚田の地は、『風土記稿』に赤浜村の小名の一つとして載せられており、「古別に村落をなせしとぞ、鎌倉繁栄の頃は宿駅を置し地ならんと云、既に当所三嶋社応永2年(1395)鰐口の銘に、武蔵国男衾郡塚田宿と彫たり、前に云鎌倉の古街道は、ここに残れり」と記されている。また「塚田は鎌倉街道の宿駅として栄え、塚田千軒町の名で呼ばれていた」との口碑も残る。
当社の創建は、その立地から考えると、鎌倉幕府の開設以来、幕府から特別の崇敬と保護を受けた伊豆の三嶋大社の神を信仰した当地の土豪が行ったのであろう。当地は、塚田千軒宿と呼ばれた大規模な宿駅があり、鎌倉街道の要衝であったことから、ここを固めた土豪と幕府とは深い結び付きがあったと考えられる。また、その土豪が実力をつけるに至った背景には、荒川の川砂を利用して鋳物を製造する鋳物師集団が当地に存在していたことが挙げられよう。鋳物師集団の活動の足跡については、鎌倉期は明らかではないが、安房国清澄寺の明徳3年(1392)の銅鐘に「大工武州塚田道禅」と見え、南北朝期の活動が知られる。当社に奉納された鰐口(径19.9cm)もその年紀から当地の鋳物師によって作られたものであろう。ちなみに、地内では多量の金糞が発見されているほか、荒川対岸の黒田では「たたら」と呼ばれる製鉄溶鉱炉の跡も発掘されている。

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