稲之比売神社
いなのひめじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】稲之比売神社 武蔵国 男衾郡鎮座

   【現社名】稲之比売神社
   【住所】埼玉県大里郡寄居町鉢形 2326
       北緯36度6分21秒,東経139度12分3秒
   【祭神】稻田姫命 素盞嗚命 大己貴命 少彦名命
       『大日本地名辞書』保食神
       『神祇志料』宇加乃売神
       延経『神名帳考証』『神祇宝典』和賀宇加乃売命

   【例祭】10月18日 秋祭り
   【社格】旧村社
   【由緒】創立年代不詳
       天長元年(824)6月28日相馬清太輔宗満祠官となる。
       貞観17年(876)12月5日従五位下(三代実録)
       元亀年中鉢形筑城に際して城内に遷
       天正18年(1590)再び現在地に復興
       明治維新に際して稲乃比売神社と改称
       昭和3年10月15日村社・神饌幣帛料供進指定

   【関係氏族】壬生氏
   【鎮座地】当初この地に鎮座
        元亀年中鉢形筑城に際して城内に遷
        天正18年(1590)再び現在地に復興

   【祭祀対象】本来は稲霊を祀る
   【祭祀】江戸時代は「氷川社・氷川大明神」と称していた
   【社殿】本殿流造鱗葺
       拝殿・社務所

   【境内社】愛宕神社・八坂神社

城南中学校西に鎮座する。
神社の前方50mの地点他に湧泉があり、この地を開拓して集落を形成した古代の人々が、豊穣なる収穫を祈つて稲魂を地主神として祭り、祠を立てたものと思われる。
中世、氷川社・氷川大明神と称したが、明治維新に際して稲乃比売神社と改称した。
神職は天長元年(824)6月28日以降代々継承して今日に至っている。


稲乃比売神社

往古 土民のこの地を拓けるや、建国の神 稲田姫の命、素盞嗚命、大己貴命、少彦名命の四神を斎き祀りて崇敬し、以て泰平を楽しみたりき。人皇五十三代淳和天皇の御宇 天長年間に至り、相馬氏 祠官となりてこれを奉祀せり。由来、鉢形村は西に連山を控へて秩父の関門をなし、北に荒川の断屋を巡りて要害に適し、その地域高層にして関東平野の西を限り、一望にして四方に令するの地なり。従って日と共に開拓されて土民 相増し、豪族 相拠るに及び、当社は鉢形村総鎮守として厚く崇敬せられ、神徳益高く、以て異状なる発展をなしたりき。
 冨田永世輯録の『北武蔵名跡誌』に「武蔵国男衾郡木持村 延喜式内稲乃比売神社 戸数六十」と記され、『武蔵四十四座調』には「男衾三座の内 稲乃比売神社は鉢形領数釜の庄 鉢形町にあり 神主相馬氏」とあり、その鉢形領数釜の庄鉢形町は、元亀 天正年間に於ける鉢形城主の威望盛なる当時の町名にして、現在 鉢形村の前名なり。
 『武鉢形外曲輪名所記』に「惣社氷川大明神稲乃比売神社 祭神四座 櫛稲田姫命 素盞嗚命 大己貴命 少彦名命 武蔵四十四座の内男衾三座の一 城中の守護神たり 元亀年中城外より勧請す」とあり、その後 幾多の星霜を経るに従ひ、社殿の朽廃せるものあるを以て、安政年間これが改築を行ひ、以て現在に及べり。



稲乃比売神社

当地一帯は、『和名抄』に載る男衾郡八郷の内の「榎津郷(えなつごう)」に比定される地で、渡来系民族「壬生吉志」氏の在所であった。 当社はこの榎津郷に祀られた『延喜式神名帳』登載の「稲乃売神社」であると伝える。
「地理志料」では、「稲乃売神」と『三代実録』貞観六年(875)十二月の名に載る「稲娶(いなづめ)神」が同神で、更にこの「稲娶」の音と旧郷名「榎津」の音が通じることから、 当地に稲乃売神社が祀られたと推測している。
古代の祭祀は、『類聚三代格』の貞和八年(841)五月条に「男衾郡榎津郷戸主外従八位壬生吉志福正」とあることから、壬生吉志氏が行った可能性がある。恐らくこの時期、福正が当社に関与し、豊穣をまたらす稲霊を祀り、郷民の安泰を願ったのであろう。
社名は、恐らく氷川信仰の流布により「氷川社」に変更されたものと推測され、これが幕末まで続いたが、時流により明治初年、旧社名の「稲乃売神社」に復した。
ちなみに、社蔵の宝暦七年(1757)の社号額には「氷川大明神」と刻まれている。

埼玉の神社



氷川社

村の鎮守なり、相傳ふ【延喜式】神名帳に載る處の當郡三座の内、稲乃賣神社なりといへど、慥なる證跡なし折原村神主相馬播磨持、

新編武蔵風土記稿



稲乃比売神社

当地一帯は『和名抄』に載る男衾郡八郷の内の「榎津郷」に比定される地で、渡来系氏族「壬生吉志」氏の在所であった。
当社はこの榎津郷に祀られた『延喜式』神名帳登載の「稲乃売神社」であると伝える。『地理志料』では、「稲乃売神」と『三代実録』貞観17年(875)12月の条に載る「稲聚神(いなつめ)」が同神で、更にこの「稲聚」の音と旧郷名「榎津(えなつ)」の音が通じることから、当地に稲乃売神社が祀られたと推測している。
古代の祭祀は、『類聚三代格』の承和8年(841)5月条に「男衾郡榎津郷戸主外従八位上壬生吉志福正」とあることから、壬生吉志氏が行った可能性がある。恐らくこの時期、福正が当社に関与し、豊穣をもたらす稲霊を祀り、郷民の安泰を願ったのであろう。
社名は、恐らく氷川信仰の流布により「氷川社」に変更されたものと推測され、これが幕末まで続いたが、時流により明治初年、旧社名「稲乃比売」に復した。ちなみに、社蔵の宝暦7年(1757)の社号額には「氷川大明神」と刻まれている。
現在の本殿は、安政3年(1856)の再建で「鎮守再建一札」には、妻沼町聖天山の貴惣門を建築した林兵庫の名が見える。
祀職は、天長元年(824)以来の名家と伝える、相馬家が奉仕している。

埼玉の神社



稻乃売神社

稻乃売は伊奈能女と訓べし○祭神明か也○鉢形領鉢形町に在す、(式社考に、椋田村三島宮と云り)例祭月日、

神社覈録



武蔵国INDEXへ        TOPページへ


学校統廃合