城南中学校西に鎮座する。 神社の前方50mの地点他に湧泉があり、この地を開拓して集落を形成した古代の人々が、豊穣なる収穫を祈つて稲魂を地主神として祭り、祠を立てたものと思われる。 中世、氷川社・氷川大明神と称したが、明治維新に際して稲乃比売神社と改称した。 神職は天長元年(824)6月28日以降代々継承して今日に至っている。 |
稲乃比売神社 往古 土民のこの地を拓けるや、建国の神 稲田姫の命、素盞嗚命、大己貴命、少彦名命の四神を斎き祀りて崇敬し、以て泰平を楽しみたりき。人皇五十三代淳和天皇の御宇 天長年間に至り、相馬氏 祠官となりてこれを奉祀せり。由来、鉢形村は西に連山を控へて秩父の関門をなし、北に荒川の断屋を巡りて要害に適し、その地域高層にして関東平野の西を限り、一望にして四方に令するの地なり。従って日と共に開拓されて土民 相増し、豪族 相拠るに及び、当社は鉢形村総鎮守として厚く崇敬せられ、神徳益高く、以て異状なる発展をなしたりき。 冨田永世輯録の『北武蔵名跡誌』に「武蔵国男衾郡木持村 延喜式内稲乃比売神社 戸数六十」と記され、『武蔵四十四座調』には「男衾三座の内 稲乃比売神社は鉢形領数釜の庄 鉢形町にあり 神主相馬氏」とあり、その鉢形領数釜の庄鉢形町は、元亀 天正年間に於ける鉢形城主の威望盛なる当時の町名にして、現在 鉢形村の前名なり。 『武鉢形外曲輪名所記』に「惣社氷川大明神稲乃比売神社 祭神四座 櫛稲田姫命 素盞嗚命 大己貴命 少彦名命 武蔵四十四座の内男衾三座の一 城中の守護神たり 元亀年中城外より勧請す」とあり、その後 幾多の星霜を経るに従ひ、社殿の朽廃せるものあるを以て、安政年間これが改築を行ひ、以て現在に及べり。 |
稲乃比売神社 当地一帯は、『和名抄』に載る男衾郡八郷の内の「榎津郷(えなつごう)」に比定される地で、渡来系民族「壬生吉志」氏の在所であった。 当社はこの榎津郷に祀られた『延喜式神名帳』登載の「稲乃売神社」であると伝える。 「地理志料」では、「稲乃売神」と『三代実録』貞観六年(875)十二月の名に載る「稲娶(いなづめ)神」が同神で、更にこの「稲娶」の音と旧郷名「榎津」の音が通じることから、 当地に稲乃売神社が祀られたと推測している。 古代の祭祀は、『類聚三代格』の貞和八年(841)五月条に「男衾郡榎津郷戸主外従八位壬生吉志福正」とあることから、壬生吉志氏が行った可能性がある。恐らくこの時期、福正が当社に関与し、豊穣をまたらす稲霊を祀り、郷民の安泰を願ったのであろう。 社名は、恐らく氷川信仰の流布により「氷川社」に変更されたものと推測され、これが幕末まで続いたが、時流により明治初年、旧社名の「稲乃売神社」に復した。 ちなみに、社蔵の宝暦七年(1757)の社号額には「氷川大明神」と刻まれている。 埼玉の神社 |
氷川社 村の鎮守なり、相傳ふ【延喜式】神名帳に載る處の當郡三座の内、稲乃賣神社なりといへど、慥なる證跡なし折原村神主相馬播磨持、 新編武蔵風土記稿 |
稲乃比売神社 当地一帯は『和名抄』に載る男衾郡八郷の内の「榎津郷」に比定される地で、渡来系氏族「壬生吉志」氏の在所であった。 当社はこの榎津郷に祀られた『延喜式』神名帳登載の「稲乃売神社」であると伝える。『地理志料』では、「稲乃売神」と『三代実録』貞観17年(875)12月の条に載る「稲聚神(いなつめ)」が同神で、更にこの「稲聚」の音と旧郷名「榎津(えなつ)」の音が通じることから、当地に稲乃売神社が祀られたと推測している。 古代の祭祀は、『類聚三代格』の承和8年(841)5月条に「男衾郡榎津郷戸主外従八位上壬生吉志福正」とあることから、壬生吉志氏が行った可能性がある。恐らくこの時期、福正が当社に関与し、豊穣をもたらす稲霊を祀り、郷民の安泰を願ったのであろう。 社名は、恐らく氷川信仰の流布により「氷川社」に変更されたものと推測され、これが幕末まで続いたが、時流により明治初年、旧社名「稲乃比売」に復した。ちなみに、社蔵の宝暦7年(1757)の社号額には「氷川大明神」と刻まれている。 現在の本殿は、安政3年(1856)の再建で「鎮守再建一札」には、妻沼町聖天山の貴惣門を建築した林兵庫の名が見える。 祀職は、天長元年(824)以来の名家と伝える、相馬家が奉仕している。 埼玉の神社 |
稻乃売神社 稻乃売は伊奈能女と訓べし○祭神明か也○鉢形領鉢形町に在す、(式社考に、椋田村三島宮と云り)例祭月日、 神社覈録 |