平安末期に長命寺の支配を受け、室町時代の文明年間、同寺の法印良恭は、当社に鹿嶋明神を合祀した。 江戸時代、旗本の牛奥氏は鹿島明神の信仰厚く、出雲乃伊波比神社の社号は隠滅した。 |
出雲乃伊波比神社由緒 ○村社出雲乃伊波比神社由緒 社伝に曰く、当社は延喜式神名帳に載する所にして本郡三社の一なりといふ。中古、神道陵夷仏法隆盛の世に遭遇し、本社もまた本山修験聖護院宮御下正年行事職長命寺開山源阿法印別当たりしより、明治元年に至るまで、四十三世、法嗣継続にて奉仕せり。 その二十七世良恭法印文明の頃、鹿島明神を合祀し、旧幕府時代、旗本 牛奥新五左衛門の采地となり、牛奥氏、鹿島明神を最も信仰し、鹿島の神威高く、出雲乃伊波比神社の名は終に隠滅するに至れり。 然れども氏子信徒は旧社たる事を確信したるも、『武蔵風土記稿』に載する文書、及び出雲乃伊波比神社の社号を記載せる古板の経巻、及び古文書等、社内別当に所蔵せるも、大政維新 神仏混淆分離の秋、仏に係るを以て悉皆灰燼と為し、現に残れるは、長明寺古記録に「男衾郡三座の内出雲乃伊波比神社」と記載せる一本のみ。また伴信友『神名帳考証土代二式考』に「伊多村に在り」、信友之兼永本朱書入に云ふ「大己貴命也」、また『武蔵風土記稿』に「本村氷川社を出雲乃伊波比神社とせしは本社の誤りにて氷川社は本社の縁故あるを以て摂社に祀りし」といふ。かかる証拠に依り、社号復旧改称を出願し、明治18年8月15日、許可相成りたり。 本社は遠近信徒多く、殊に痲疹の流行の時は平癒を祈り参詣する者夥しく、社前 和田吉野川の架橋を八雲橋といふ。神詠とて「八雲橋 かけてそたのめ あかもかさ あかき心を 神につくして」この御詠を唱ひつつ架橋の下を潜りまた渡れば、必ず軽症にして平癒すと、参詣者 群をなせり。本社宮殿は、小なりと雖も、壮篭にして本郡中 著名にして並ぶなし。明治4年10月、村社に列せらる。 ○氷川神社由緒 創立年月不詳。里老口碑に曰く、天平年中の創立にして、延喜式神名帳に載する所の本郡三社の内 出雲乃伊波比神社にて、祭神或いは大己貴命といふ。社名は北足立郡官幣大社氷川神社と同神なるを以て誤り伝へらるべし。 当社旧別当 長命寺の古文書に曰く「往時 本村及び柴、千代、塩等の四村は、篠場、また篠場庄篠場原といふ 畏くも伊波比神の鎮座を以て伊波比村と称せしを 愆て伊多井村と云ふ」とあり、因てこの村名も伊波比神社より起れりといふも、敢て付会の説にはあらず。 また『新編武蔵風土記』 該社別当長命寺の条を閲するに曰く、「別当長命寺 本山修験聖護院末にて正年行事職を勤め 本郡及び上比企郡 幡羅郡内甕尻 榛沢郡田中 菅沼 瀬山等の村村の修験等この配下に属す 開山は法印元阿円長 近衛天皇の御代にて凡七百三十余年<中略>開山塔の傍に古木の桜あり 俗に長命寺桜といふ 樹は枯て今の木は植継したるものなり」といふ。 また天文・天正・慶長の古文書、今なほ該寺に存在せり。別当長命寺は七百三十余年、世襲して隆盛を極めし事は往古この『新篇風土記』板井の条に「氷川社 村の鎮守なり 延喜式神名帳に載する出雲乃伊波比神社なりといふ 社地老杉の繁茂せるさま神古くしとたしかなる証拠なり 口碑のみ残れり」とあり、また『考証土台』に曰く「出雲乃伊波比神社」、『式考』に「板井村にあり 大己貴命なり」とあり、これを以て考ふれば、延喜式内の古社といふも敢て疑を容れず。社殿は寛永6年10月の造営にして、明治4年村社に列せらる。 社掌 森本三作 氏子惣代 飯嶋良七 吉野道之進 吉野昆一郎 宇治川彦次郎 長倉良八 柴崎惣吉 |
出雲乃伊波比神社 所在地 江南町大宇板井 本社は、もと鹿島神社といわれていたが、明治28年に出雲乃伊波比神社と改称された。祭神は、武甕槌命である。 境内には、氷川神社、八坂神社、龍田神社、稲荷神社、天満神社、神明神社、山神社、富土浅間神社などか合祀されている。 本社の祭神武甕槌命は、神話時代の高天原で、国土平定役の白羽の矢が、まず経津主命に立てられたとき、力に自信の溢れている武甕槌命もその役を希望して二神が協力して国土平定の大役を果したという。武勇絶倫しかも協力性に燃えた国づくりの華々しい勲功の神である。 また、社前の和田吉野川に架けられた太鼓橋は、昔から八雲橋といわれ、この橋をくぐって子供のはしか平癒を祈頼するものが多く、昭和の初め頃まで「はしか参り」が列をなしたものである。 境内に祀らている神々の祭日のうち、特に7月15日の八坂祭りは、昔から「板井の天神様」として近在に知られ、明治4年からば太鼓の「ヒハリバタシ」を載ゼた屋台か「みこし」と一緒に板井区内をにきやかに一巡するようになった。 昭和和56年3月 埼玉県 社頭掲示板 |
出雲乃伊波比神社 当社は、『延喜式』神名帳に登載されている男衾郡三座のうちの一座であると伝え、鎮座地は荒川水系に属する和田川上流にある。地内には、奈良・平安期の住居跡が確認されているとともに、隣村の大字塩では古墳群が存在している。 古代、当社を奉斎した集団は、社名から出雲系氏族であった可能性が考えられる。これは当社と同じ社名の入間郡の式内社「出雲伊波比神社」や出雲という名称こそ冠していないが、出雲系氏族の物部氏が奉斎したと思われる物部天神社と中氷川神社の存在からもうかがえる。恐らく、入間郡一帯に勢力があった出雲系氏族の一派が当地に移住し、当社を創建したのであろう。また、祀る神は、武蔵国内の荏原郡「磐井神社」・多磨郡「青渭神社」・横見郡「伊波比神社」などの式内社同様、水源に坐す神であったに違いない。 別当は、京都の聖護院末の本山派修験長命寺が明治維新まで務めた。開山は、元阿円長法印で、久安3年(1147)に寂している。 同寺の法印は、男衾・比企・幡羅・榛沢郡のうち四八か村の修験を統轄する正年行事職で、幕末までに合わせて四三世にわたる法印が相続した。中でも二七世良恭法印は、文明年間(1469−87)、当社に鹿島明神を勧請して社名を出雲伊波比神社から鹿島社と改めた。以後、これは明治28年の旧社名復古まで変更されなかった。 埼玉の神社 |