出雲之伊波比神社
いずものいわいじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】出雲乃伊波比神社 武蔵国 男衾郡鎮座
          (旧地)八幡塚跡

   【現社名】出雲之伊波比神社
   【住所】埼玉県大里郡寄居町赤浜 723
       北緯36度6分45秒,東経139度14分32秒
   【祭神】須佐之男命
       (配祀)三穗津姫命 誉田別命 天児屋根命 天太玉命 天穗日命
       (合祀)天照皇大神 軻遇突智命

   【例祭】10月20日 大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】創立年代不詳
       前九年の役の際、源頼義が白籏八幡社と改称
       弘治3年(1557)以前に赤浜村下河内に移転
       天正8年(1580)水害後現在地に遷祀
       元緑年中火災
       文化3年火災
       明治4年11月村社
       同32年6月24日郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】かつて川本村畠山にあつて白籏八幡社と称した
        弘治3年(1557)以前に赤浜村下河内に移転
        天正8年(1580)水害後現在地に遷祀

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「八幡宮・八幡社・春日大明神」と称していた
   【社殿】本殿流破風造
       拝殿・社務所・神樂殿

   【境内社】榛名社・古峯社・三峰社

武蔵国には「出雲伊波比神社」と「出雲之伊波比神社」と似た名称の式内社が鎮座している。
古くは川本村畠山に鎮座していた。創建年代は不詳である。天喜年間(1052年 - 1057年)の前九年の役の際、源頼義が陸奥国へ向かう途中で戦勝祈願のために同社へ参拝し、白旗を献上したことをきっかけに「白籏八幡社」と改称された。
弘治3年(1557年)には「八幡塚」と呼ばれ、赤浜村下河内に移転し、さらに天正8年(1580年)に荒川の大洪水により、住民と共に現在の鎮座地に移転した。
明治に入り、創建当初の社名の「出雲乃伊波比神社」に改称された。


由緒

出雲乃伊波比神社
八幡塚御由緒
赤浜の歴史は、出雲乃伊波比神社を軸として、千数百年の歩みを続けてきました。天正8年、荒川の度重なる大水害に抗し難く現在の地に集落一体となって、大移動を決行しました。その際境界決定について両者合議の上、精密なる境界構図が現存していることは往時の事実を物語る証拠であります。赤浜にとって、これ程重大な事業は以後四百年ありません。移転後、生活した下河内は肥沃に恵まれ比較的平坦でまとまった農地で赤浜地区の重要な基盤でした。しかし個々の耕作となりますと長短大小入り混じり、荒川に接近しながら用排水に難渋し、耕作道も狭くて不便でありました。昭和56年10月、農業の近代化を図るため、赤浜土地改良総合整備事業が進められ、由緒深い八幡塚も農地として整備せられしめたため、三代に渡る氏子総代、初穂組合長の協力を得て、記念碑を設立し、次の通り碑文を記しました。
宮乃井の由来
旧郷社出雲乃伊波比神社の鎮座地は、鉢形庄、赤浜村と云われ、古は、字下河内の八幡塚に鎮座され、天正8年、度重なる大水害により、今の地に鎮座されました。旧社地の南方を宮乃東、北を宮後川端と称し、東南に宮乃井がありました。宮乃井は、神助により、豊かな水量に恵まれて、一年中、水の枯れる事はありませんでした。昭和8年、稀有なる大旱魃がありました時、赤浜の各戸の井戸水がすべて干しあがり、飲料水に欠乏したる時も、この宮乃井及び神水の根元より冷水こんこんと湧出し、赤浜は勿論、隣村富田より家内の飲み水として、更に牛馬の飲み水に至るまで使用したと伝えられていました。昭和56年10月、この宮乃井も、農業の近代化を図るため、赤浜土地改良総合整備事業により、土地基盤用排水、道路の整備、更に県道(菅谷・寄居線)高架橋が、かけられ、その存在も忘れ去られようと、しているため、私財をもって記念碑を建てました。碑文は次の通りです。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




出雲之伊波比神社

一、神社所在地 赤原村 弘治3年赤浜之原村と云う
        赤浜村 宝永7年鉢形庄赤浜村
 古は字下河内の八幡塚に鎮座す天正8年水害にて今の地に鎮座す
 天正8年現境内に還座し正保3年水野石見守重郎左衛門忠貞の企画により社地及び境内に植樹す
二、神社の名称 出雲伊波比神社(武蔵演露七の巻赤浜村の条に依る)
   八幡宮、春日大明神(寛政11年の額面)
   出雲乃伊波比神社(神社覈録 特選神明帳に依る)
   出雲乃伊波比神社(現在)
三、祭神 主神、素佐之男命 相殿 三穂津姫命 誉田別命(応神天皇)
     天児屋根命 天太玉命 天穂日命 大巳貴命
     天照皇大神(元無格神社の合祀によりて)
     軻遇突智命(無格社愛宕社の合祀によりて)
四、旧社格 武蔵国延喜式内小社(神社覈録特選神名帳考証による)
      村社 明治4年11月
      郷社 明治32年6月24日(加列)
五、社殿 一旧社殿 本殿 元禄元年の再建築なり間口九寸奥行六寸なり
          拝殿 寛永9年の造営にして現在は三島神社拝殿なり
     二現社殿 本殿間口一間奥行二間銅板葺格流二手先破風造総欅
            白木造り総彫刻周囲透塀文政3年竣工
          拝殿間口五間奥行き三間向付入母屋造屋根瓦葺き
             明治14年11月26日竣工
六、境内神社及び附属建物
 一、境内神社 祭神
  皇産霊神  高皇産霊神  明治3年10月9日常楽寺より移転
  浅間社   木花開耶姫命 万延元年勧請
  天満社   菅原道眞公  文政10年正月25日再建
  伊奈利社  宇迦御魂神  明治3年10月9日再建
  白山荘   伊弉冊命   元文元年正月28日再建
  愛宕社   軻遇突智命  明治40年5月28日本殿に合祀
  古峯社   古峯大神   昭和12年5月23日再建
  三峰社   日本武尊   昭和12年5月23日再建
  蚕影社   蚕影大神   元文元年正月28日再建
               明治40年5月28日境内移転す
  八坂社   須佐之男命 昭和40年3月1日境内移転(石宮)
  八坂社   須佐之男命
  妙見社   八意思兼命
  山神社   大山祇命、伊邪那美命、大物主命
二、附属建物
 社務所 昭和61年3月再建 平屋建瓦葺174平方メートル(52.75坪)
 神楽殿 切妻造間口九尺奥行三間半
 鳥居 総樫材春日造高一丈二尺通一丈
 手洗所(石)材 小松石横二尺縦三尺
 社標 根武川石縦八尺五寸横四尺五寸
 日清戦役記念碑 根武川石縦六尺横三尺
 日露戦役記念碑 仙台石縦六尺五寸横四尺五寸
 延喜式内撰上一千年奉祝記念碑 縦五尺五寸横三尺五寸
 境内地譲与記念碑 縦1.45m 横0.58m
 従軍記念碑 縦3.5m 横1.4m
七 氏子区域 現在戸数198戸(平成元年度)
八、現在における神社の祭日
   歳旦祭 1月1日
   節分祭 2月3日(4日)
   祈年祭・愛宕祭 2月23日(前夜祭)24日
   入学児童祈願祭 3月下旬(4月下旬)
   末社八坂社祭  7月中旬(下旬)の日曜日
   大祭 10月19日(前夜祭)20日
   新嘗祭・愛宕祭  10月23日(前夜祭)24日
   大抜祭  12月31日
八幡塚御由緒
赤浜の歴史は、出雲乃伊波比神社を軸として、千数百年の歩みを続けて来ました。天正8年、荒川の度重なる大水害に抗し難く現在の地に衆落一体となって、大移動を決行しました。その際境界決定にについて両者合議の上、精密なる境界構図が現存していることは往時の事実を物語る証拠であります。
赤浜にとって、これ程重大な事業は以後400年ありません。移転後、生活した下河内は肥沃に恵まれ比較的平担でまとまった農地で赤浜地区の重要な基盤でした。しかし個々の耕作となりますと長短大小入り混り荒川の接近しながら用排水に難渋し、耕作道も狭く不便でありました。
昭和56年10月、農業の近代化を図るため、赤浜土地改良総合整備事業が、進められ由緒深い八幡塚も農地として整備されしため、三代に渡る氏子総代、初穂組合長の協力を得て、記念碑を設立し、次の通り碑文を記しました。

碑文
赤浜は古代より下河内にあり天正年間まで村落をなし延喜式内社旧郷社出雲乃伊波比神社鎮座されしも荒川の度重なる大洪水に崩壊し天正8年鉢形城主北条安房守氏邦領地の時代先人の英知によりて高層の現在地に本社殿を御遷座し氏子も共に移れり
正保4年旗本水野石見守十郎左衛門忠貞領地替えの記念として社地及び境内に植樹せり社殿跡地に御分神誉田別尊(八幡大神)を奉仕し八幡塚と敬称す塚の東を宮乃東塚の南を宮乃前塚乃北を宮後川端と称し塚の東南に宮井戸ありて保存せり
由緒ある此の地も時移り農業の近代化促進のための土地改良事業完成を機会にひのふるさととして昔を偲び赤浜地区の繁栄を祈念し氏子と土地改良区各位の総意と協力を得て建碑す
宮司高橋達男撰書

宮乃井の由来
旧郷社出雲乃伊波比神社の鎮座地は、鉢形庄、赤浜村と云われ、古は、字下河内の八幡塚に鎮座され、天正8年、度重なる大水害により、今の地に遷座されました。
旧社地の南方を宮乃前東方を宮乃東北を宮後川端と称し、東南に宮乃井が、ありました。
宮乃井は、神助により、豊かな水量に恵まれて、一年中、水の枯れる事は、ありませんでした。
明和8年稀有なる大旱魃が、ありました時赤浜の各戸の井戸水のすべてが干しあがり、飲料水に欠乏したる時も、この宮乃井及び神水の根元より冷水こんこんと湧出し、赤浜は勿論、隣村富田より家内の飲み水として、更に牛馬の飲み水に至るまで、使用したと伝えられていました。
昭和56年10月、この宮乃井も、農業の近代化を図るため赤浜土地改良整備事業により、土地基盤用排水道路の整備更に県道(菅谷-寄居線)高架橋が、かけられ、その存在も忘れ去られようと、しているため、私財をもって記念碑を建てました。碑文は、次の通りです。

宮乃井保存碑
この地は由緒ある八幡塚の南に位置し宮乃井と云われ飲み水を湧出している天正8年荒川の度重なる水害によって出雲乃伊波比神社と共に氏子は現在地に移った下河内に働く氏子ののどを潤し疲れた身体を癒した
昭和60年赤浜土地改良区事業により耕地整理され新らしい時代を迎えようとしている永く氏子に親しまれたこの宮乃井を後世に伝えたい
昭和61年10月吉日
宮司高橋達男撰書

由緒書



出雲乃伊波比神社

本社は、延喜式神明帳(927)に「男衾郡 三座(式内社)」の一社としてその名が記されている出雲乃伊波比神社であるといわれている。しかし、度重なる災害のため、古資料はことごとく滅失し、弘治3年頃(1557)には字下河内の八幡塚に社殿が築かれていたと伝えを残すのみとなっている。天正8年(1580)荒川の幾多の洪水に抗しがたく鉢形城主北条氏邦領地の時代に現在の地へ集落一体となって大移住を行い、本社殿も遷座した。以来、河岸段丘の赤浜は安住の地となり、既に400年余が経過し今日に至っている。正保3年(1646)には、水野石見守重郎左衛門忠貞が領地替え記念に社地及び境内に植樹したと伝えられている。
また、当社は「赤浜の八幡様」の呼び名で親しまれているが、それは天喜年中(1053から58)奥州征伐の途中、近くを通りかかった源頼義が、当社に白旗を献じて戦勝を祈願したことから、以後「白旗八幡社」と称するようになったためである。再び出雲乃伊波比神社と呼ばれるようになるのは、明治維新後のことである。これは、王政復古を機に、当社の社号も伝統ある出雲乃伊波比神社の旧号に復したものであるが、長い間使われてきた呼称への愛着は強く、今でもなお「八幡様」の通称のほうが広く知られている。なお、出雲乃伊波比神社とは、出雲系の豪族集団が出雲の祖神を祭祀した社、また「出雲の神を斎う」社と表されている。
平成29年7月吉日
出雲乃伊波比神社 宮司

社頭掲示板



八幡社

村民八十家の鎮守なり、春日社を合祀し、【延喜式】神名帳に載たる男衾郡三座の内、出雲乃伊波比神社なりと云傳へたれど、させる古色とも見えず、又別に棟札古文書等の徴すべきものなし、殊に郡内板井村の氷川社をも、彼伊波比神社なる由いひ傳ふれば、何れを式神社とも定めがたし、

新編武蔵風土記稿



出雲乃伊波比神社

赤浜は、古えの鎌倉街道(現在の県道富田熊谷線)に沿った宿駅として知られている。しかし、赤浜の集落は、元から現在の所にあったのではなく、その名からも推察されるように、当初は荒川のすぐそばに開かれていた。そこは、肥沃で農耕に適してはいたが、毎年のように荒川が氾濫し、水害を被るような土地でもあった。そのため、天正8年(1580)村民は合議の末に、そこから30mほど標高の高い河岸段丘上の地に新たに集落を開いて移り住んだ。これが現在の集落で、当社も初めは荒川の岸辺の字下河内(現在の花園橋の下辺り)に祀られていたが、この時当時の住民約八〇戸と共に移転し、現在の境内に鎮まった。「八幡塚」と呼ばれていたその旧地は、長い間残されていたが、土地改良のため、昭和56年に跡形もなく取り壊され、その跡地近くに立つ記念碑と、そのやや南方の宮乃井と呼ばれる井戸にその名残をとどめるだけとなった。
社は、『延喜式』神名帳に、「男衾郡 三座」の一つとしてその名が記されている出雲乃伊波比神社であるといわれている。しかし、右に記した地勢のため、古資料はことごとく洪水で失われ、弘治3年(1557)ごろには字下河内の八幡塚に社殿が築かれていたとの伝えを残すのみとなっている。
また、当社は「赤浜の八幡様」の呼び名で親しまれているが、それは、天喜年中(1053-58)、奥州征伐の途中、この近くを通りかかった源頼義が、当社に白旗を献じて戦勝を祈願したことから、以後「白旗八幡社」と称するようになったためである。このような経緯により、八幡社と称していた時代が相当長かったため、出雲乃伊波比神社という伝統ある社名はいつしか人々の間から忘れ去られていったのであろう。
「八幡社、村民八十家の鎮守なり、春日社を合祀す」と『風土記稿』も記しているように、当社は、江戸時代には八幡社と春日社の合殿であった。そのことは、内陣に安置されている神像からもうかがわれる。当社の神像は、騎乗の八幡大切神像と鹿に乗る春日大明神像の二体で、それが二間社流造りの本殿の左右に一体ずつ納められていた。記録によれば、この神像は二体とも宝永年中(1704−11)に当時の神職高橋吉久が作って納めたものである。しかし、それほどの扱いにもかかわらず、春日社の由緒の方は全く伝わっていない。
当社が再び出雲乃伊波比神社と呼ばれるようになるのは、明治維新後のことである。これは、王政復古を機に、当社の社号も伝統ある出雲乃伊波比の旧号に復したものであるが、長い間使われてきた呼称への愛着は強く、今でもなお「八幡様」の通称の方が広く知られている。

埼玉の神社



出雲乃伊波比神社

出雲乃は伊豆毛能と訓べし、伊波比は假字也、〇祭神三穗津姫命、誉田別尊、天児屋命、(地名記)〇赤濱村に在す、(同上O式社考には、伊多井と云り)今八幡春日と称す、例祭月日、○当國横見郡伊波比神社もあり、

神社覈録



郷社 出雲乃伊波比神社

祭神 須佐之男命
合祀
誉田別尊 天児屋根尊
天太玉命 三穗津姫命
本社は元と八幡社と称し、又八幡春日とも號す、創立年代詳ならず、但し古老相伝ふ、当社は延喜式神名帳所載の当国四十四座の一に坐ます出雲乃伊波比神社なりと、新編武藏風土記稿之を駁して云く、
「サセル古社トモ見エズ、又別ニ棟札古文書等ノ徴スベキモノナシ、殊ニ郡内板井村ノ氷川社ヲモ、彼伊波比神社ナル由イヒ伝フレバ、何レヲ式神社トモ定メガタシ、」・
と、然れども社頭の碑、表に武蔵國四十四座中出雲乃伊波比神社、裏に文政8酉年11月吉日と見え、學者亦当社を以て出雲乃伊波比神社とするものあり、覈録然り、特選神名牒亦然り。
乃ち神社覈録に云く、
「出雲乃伊波比神社、出雲乃は伊豆毛能と訓べし、伊波比は假字也、祭神三穂津姫命、誉田別尊、天児屋命(地名記)」
○赤濱村に在す(同上〇式社考には伊多井村と云り)、今八幡春日と称す。
特選神名牒に云く、
「今按武藏式社道程命、附ニ祭神三穂津姫命、相殿誉田別天皇天児屋命ニテ今八幡春日卜云トアレド信ジガタシ、明細帳ニ祭神須佐之男神トアルハ上ノ出雲伊披比神社ノ條ニ云ル如ク、天穂日命ニ由アリテ出雲神ニマセパ須佐之男神ヲ祭ルト云ヒ、古伝ナルベシ、故今之ニ從フ、所在赤濱村」
とあり、往古は当村丑の方に在りしが、屡水害を被るの故を以て、天正年中、今の地に奉遷す、旧跡今尚ほ字宮ノ前に存す、明治5年村社に列し、明治32年6月郷社に昇格せり。
社殿は本殿、拝殿、神樂殿等を具備せり、就中本殿は文政年中の造営にて、境内地1753坪(官有地第一種)にして数百年を経たる松樹数株あり風致備れり、又基本財産1500円を有せり。

明治神社誌料



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