天長5年(824)に桓武天皇の孫に当たる宮目姫が滋野国幹に伴われて下総国に下向の途中に当地に立ち寄られた。付近の紅葉の美しさにみとれているうちに、宮目姫はにわかに発病して息絶えてしまった。後に当地を訪れた慈覚大師円仁が、姫の霊を祀り姫宮明神としたのが創建とされている。 |
由緒 当社は、かつて旧百間領の総鎮守であったことから、昭和30年旧須賀村と合併の際、「姫宮」の宮をとり現町名の一部とした。新編武蔵風土記稿等によれば、祭神は多気利姫・多気津姫・市杵島姫の三柱の姫を祀る。神体は釣境三面を掛けおくとあるが明らかでない。 一説に、当社は延喜式(平安時代の法令集)にある埼玉郡宮目神社とも言われているが、騎西町に宮目神社があり明らかではない。建物は、本殿が江戸時代中頃正徳5年(1715)に造られたものであり、一方拝殿の海老虹梁に文久3年(1861)銘が記されており、本殿より後世に建てられたものである。 拝殿には、多数の絵馬がみられる。絵馬は、神に祈願または恩がえしの記として奉納する絵の額である。当社には、寺子、伊勢まいり、富士などの絵馬があり、まゆ玉の現物や硬貨(一文銭)を用いて造られたものなどもある。さらに、文化年間の俳句の絵馬(南枝の時代)、杉戸町本郷の処土大作暢書も掲げてある。 この他、境内には正徳5年の力石二個、享保4年の御手洗、天保12年(1841)の「こまいぬ」等がある。変った所では、享保2年の銘がある「ひしゃく」も今日に残されている。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
姫宮神社 所在地 宮代町字姫宮 姫宮神社は旧百問領の総鎮守で、祭神は多紀理毘売命・多岐津比売命・市杵島比売命の三柱を祀る。社伝では、桓武天皇の孫の宮目姫が当地に立ち寄った際、紅葉の美しさに見とれ、突然の病で亡くなったことを、後に慈覚大師円仁がこの話を聞き、姫の霊を祀ったのが始まりであるともいう。また、一説には、延長5年(927)成立の『延喜式』に記載される「武蔵国埼玉郡宮目神社」は当社のことであるという。 当社の本殿は、基壇の銘によると「正徳5年(1715)4月吉日」とあり、その頃建立されたと推定され、建築様式からも証明されている。一方、拝殿は、海老虹梁に文久3年(1863)の銘が記されている。拝殿内には絵馬が多数掲げられており、一部は町の指定文化財に指定されている。 また、かつて所蔵していた応永20年(1414)銘の鰐口は、現在、町の指定文化財として当社の別当寺であった前原の宝生院が所蔵する。 本殿の東側に八幡社が祀られている。元は別の神社であったが、明治35年(1902)当社に編入された。なお、八幡社は、周囲より2m程小高くなっており、かつて埴輪片が出土したことから古墳であると推定される。 社頭掲示板 |
姫宮神社 所在地 宮代町字姫宮 姫宮神社は旧百間領の総鎮守で、祭神は多紀理毘売命・多岐津比売命・市杵島比売命の三柱を祀る。社伝では、桓武天皇の孫の宮目姫が当地に立ち寄った際、紅葉の美しさに見とれ、突然の病で亡くなったことを、後に慈覚大師円仁がこの話を聞き、姫の霊を祀ったのが始まりであるともいう。また、一説には、延長5年(927)成立の『延喜式』に記載される「武蔵国埼玉郡宮目神社」は当社のことであるという。 当社の本殿は、基壇の銘によると「正徳5年(1715)4月吉日」とあり、その頃建立されたと推定され、建築様式からも証明されている。一方、拝殿は、海老虹梁に文久3年(1863)の銘が記されている。拝殿内には絵馬が多く掲げられており、一部は町の指定文化財に指定されている。またかつて所蔵していた応永20年(1414)銘の鍔ロは、現在町の指定文化財として当社の別当寺であった前原の宝生院が所蔵する。 本殿の東側に八幡社が祀られている。元は別の神社であったが、明治35年(1902)当社に編入された。なお、八幡社は、周囲より2m程小高くなっており、かつて埴輪片が出土したことから古墳であると推定される。 宮代町 社頭掲示板 |