関東地方有数の大型古墳群「さきたま古墳群」の中の「浅間塚古墳」の頂に鎮座する。かつては付近に100基ほど古墳があったという。 中世に忍城中にまつられていた「浅間神社」を社内に勧進したが、浅間神社の方が盛んになってしまったという。古墳上を「上ノ宮」、中腹を「下ノ宮」としていたが、近世には本社までもが「浅間」の神号におかされ、総じて浅間神社とよばれるようになったという。 明治維新の際に「上ノ宮」を「前玉神社」、「下ノ宮」を摂社の「浅間神社」とした。 前玉神社は埼玉古墳群内に鎮座し、本殿も古墳群の方向に建てられている。これら古墳群の首長層が前玉神社における古代祭祀集団と推定され[2]、古墳時代に古墳群を守護する形で祀られたのが創祀になると推測する説がある。 |
埼玉県名の由来 明治4年11月14日、現在の県域に「埼玉県」と「入間県」を設置するとの太政官布告が出された。これが埼玉県の誕生である。以後、幾度かの変遷を経て明治9年8月に現在の埼玉県の区域が定まった。「埼玉」が県の名称とされたのは、当所の県の管轄区域の中で、最も広いのが、埼玉郡であったことによる。 埼玉郡は、律令による国郡制度が発足した当初から設置された郡と見られ、当初は前玉郡(さきたまぐん)という表示も行われ、正倉院文書神亀3年(726)の山背国戸籍帳には「武蔵国前玉郡」の表記が見える。また、延喜式神名帳にも埼玉郡の項に「前玉神社二座」とある。 ここ行田市埼玉の地は、巨大古墳群の所在地であり、また「前玉神社」の鎮座する場所である。おそらく埼玉郡の中心地であったと考えられるので、ここに碑を建て、県名発祥の記念とする。 昭和62年4月 埼玉県 社頭掲示板 |
行田市前玉神社社叢ふるさとの森 昭和59年12月21日指定 身近な緑が、姿を消しつつある中で、貴重な緑を私達の手で守り、次代に伝えようと、この社叢が、「ふるさとの森」に指定されました。 この神社の社殿は、前方後円墳と思われる丘の上にあり、それを囲むように茂る樹林は平地の中で独得の景観を示しています。 神社の北側には、国宝・金錯銘鉄剣が発堀された稲荷山古墳など、9基の古墳群からなる県立さきたま古墳公園が隣接しており、いにしえの静寂感を漂わせています。 林相としては、ヒノキ・スギ・マツなどから構成されています。 昭和61年3月 埼玉県 社頭掲示板 |
前玉神社 前玉神社は埼玉県行田市、さきたま古墳群に隣接する神社です。高さ8.7m、周囲92mほどの浅間塚と呼ばれる古墳上に建てられております。ご祭神は前玉彦命・前玉姫命の二柱であり、人の身を守り、幸福をもたらす神様が祀られています。 前玉神社が最初に祀られた時代については、一説には大化の改新(645年)より一世紀以上さかのぼる安閑天皇、宣化天皇あるいは雄略天皇の頃の古墳時代(400年代後半〜500年代前半)ではないかと考えられています。その名残として社は古墳群に向かって祈願するように建立されています。 前玉神社は千数百年の歴史を持つ荘厳で由緒ある古社です。 前玉神社は「延喜式」(927年)に載る古社で、幸魂(さいわいのみたま)神社ともいいます。700年代の古代において当神社よりつけられた【前玉郡】は後に【埼玉郡】へと漢字が変化し、現在の埼玉県へとつながります。前玉神社は、埼玉県名の発祥となった神社であると言われています。 武蔵国前玉郡(むさしのくにさきたまのこおり)は、726年(神亀3年)正倉院文書戸籍帳に見える地名だと言われており、1978(昭和53)年に解読された稲荷山古墳出土の鉄剣の銘文から、471年には大和朝廷の支配する東国領域が、北武蔵国に及んでいたのは確実であると言われています。 北武蔵国の地元豪族が眠ると思われるさきたま古墳群の真上に建てられています。 公式HP |
浅間社 祭神木花開耶姫命にして、「延喜式」に載せたる前玉神社なれば郡中の総鎮守なりと土人いへいり。 されど屈巣村の傳へには、当社は式内の社にはあらず、昔富士の行者己が命の終る時に臨み、当所にのみ雪を降すべしといひしに、六月朔日終穏の日、果たして雪の降りたることあれば、成田下総守氏長奇異の思をなし、此所に塚を築き、家人新井新左衛門に命じて、忍城中にありし浅間社をここに移し、則成田氏の紋をつけて、行者の塚上に建り。されば忍城没落の後、彼新左衛門屈巣村に住せしより、子孫今の五郎左衛門に至り祭礼毎に注連竹を納むるをもて例とすと。 社地の様平地の田圃中より突出せる塚にて、周り二町程、高さ三丈余、四方に喬木生い茂り、頂上は僅に十坪程の平地にして、そこに小社を建つ。これを上ノ宮と云、夫より石階数十級を下り、又社あり。これを下ノ宮と云。 相傳ふ、此塚は天正の頃下総守氏長の築きし塚といへど、其様殊に古く、尋常のものにはあらず。上古の人の墳墓地なるも知るべからず、されば当社の鎮座も古きことにて、彼行者の霊社なりと云は、尤便事にて取べからざつは勿論なり。成田氏の紋を記せるは、天正の頃彼の家より造立してかくせしにや。されど天保天和等の棟札のみを蔵て、余に證すべきこともなければ、詳かなることは知るべからず。 例祭は5月晦日、6月朔日・14日・15日なり。 本社の外に拝殿、神楽殿あり。 新編武蔵風土記稿 |
前玉神社二座 前玉は郡名に同じ〇一座は祭神木花開耶姫命、埼玉村に在す、今富士権現と称す、一座は祭神大己貴命、海上郷山根根古屋村に在す、(地名記) 考証に、鷲宮乎と云り、 神社覈録 |
郷社 前玉神社 祭神 前玉命 本社は中世浅間神社又は富士権現と称せり、宝暦年間別当延命寺焼失の際、古記古文書悉く鳥有に帰し、今其の創立年代を詳にする能はずと雖も、土人の口碑、延喜式内社前玉神社とし、埼玉郡の総鎮守とせり、武蔵式社考神社覈録神祇志料特選神名牒大日本地名辞書其他學者皆当社を以て式の前玉神とす、或は云ふ、当社は式内社にあらず、昔富士の行者、死に臨み、当所にのみ雪を降すべしといひしに、六月朔日果して雪降る、成田下総守氏長、奇異の思ひをなし塚を作り、更に家人某に命じて、忍城中鎮座の淺間神社を其の塚上に建てたりと、新編武蔵風土記稿之を弁じて云く、 「社地ノ様、平地ノ田園中ヨリ突出セル塚ニテ、ソコニ小社ヲ建ツ、コレヲ上ノ宮卜云フ、夫ヨリ石階数十級ヲ下リ又社アリ、コレヲ下ノ宮ト云フ、其様殊ニ古ク尋常ノモノニハアラズ。上古ノ人ノ墳墓地ナルモ知ルベカラズ、ナレバ当社ノ鎮座モ旧キコトニテ、彼行者ノ霊社ナリト云ハ、尤僻事ニテ取ルベカラザルハ勿論ナリ、」 と、淺間神社に附きて、特選神名牒に一説を記す、即ち中頃淺間宮を社内に勧請せるに、其宮いとさかりて、いつとなく本社迄も浅間の号を以て称するに至れりと、淺間神社今は境内社だり、古来埼玉榔の総鎮守として、忍藩其他一般の崇敬する所となり、延宝年間、忍藩中の寄進に係る石島居今尚存し、又其の当時には一町九反余の神領を有したりきと云ふ、明治6年郷社に列す、社殿は本殿、拝殿、境内は2972坪(官有地第一種)古杉老柏蔚然として社殿を掩ひ、昼尚暗く、幽谷に入るの思ひあり、近来境地の一部に神苑を設け一層荘厳の度を増せり、当社に正保天和の棟札を蔵せる由社記に見えたり、 明治神社誌料 |