国渭地祇神社
くにいちぎじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】国渭地祇神社 武蔵国 入間郡鎮座

   【現社名】国渭地祇神社
   【住所】埼玉県坂戸市森戸616
       北緯35度55分57秒,東経139度21分24秒
   【祭神】八千矛命 天照皇大神 伊弉諾尊 伊弉冉尊
   【例祭】10月15日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】由緒不詳
       延暦年間坂上田村麻呂が社殿を再営
       慶安2年社領十石の御朱印 
       安永7年(1777)森戸の獅子舞はじまる

   【関係氏族】
   【鎮座地】

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「国一熊野大権現」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】八幡神社

森戸の鎭守であつて、国一熊野大権現と称し、式内社の国渭地祇神社と伝えられている。しかし、諸書で森戸の国渭地祇神社に求めているものはほとんどない。
明治初年に別当を務めた修験大徳院の大徳氏によって現在の国謂地祗神社と改称。


国渭地祇神社

当村は高麗川の南岸に位置する。ここは川沿いが低地で、南にいくほどゆるやかな台地状になっている。
当社はこの村の鎮守として鎮座し、社前の往来は旧鎌倉街道であると伝える。社名は「クニイチギ」と読み、これはおそらく水と関係あるものといわれる。
延喜式内社国渭地祇神社の伝承地については、従来、所沢市吉野に鎮座する北野天神社であることが定説となっている。しかし、当社の社殿から鎌倉期とおもわれる古瓦が出土していることや、樹相などが古いということを考えると、古社であることはまちがいない。
もと、当社は国一熊野大権現と称していた。この社名の国一は美称で、国で一番すばらしい社であるという意味が込められ、これが後に国渭地祇に転化されたものと思われる。
このため社の創立は、越生の本山派修験山本坊と直接結びついていた別当三宮山大徳院の活動にかかわるものではないかと考えられる。
社記には、延歴年中、坂上田村麻呂が東征の帰途、奉賽のため社殿を再営し、下って奥州藤原秀衛が再建したと伝えている。

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森戸の獅子舞

獅子舞の奉納 文化財の資料では1777年(安永6年)農民が生活の安定を願う行事として奉納したのが始まり。と記されています。秋の大祭りは、豊作を願い、その恵みに感謝し、氏子の繁栄を祈願する重要な行事です。
獅子舞の奉納は、こう言った氏子の願いを一身にあつめて、神前で舞う厳粛な踊りとして二百有余年の歴史とともに引き継がれてきました。
獅子舞の構成
獅子は百獣の王と言われ、神社の社前や社殿に魔よけのため一対の狛犬として左側に据え置かれています。獅子は子を生むと、これを千尋の谷へ投げ込み生き残ったものだけを養育する。
とゆう言い伝えがあります。王としての尊厳を保ち、君臨するためには、過酷な試練に耐えて、それを克服する強さが求められます。又、弱肉強食の世界で、種族の生き残りをかけた生殖期には、異性をめぐって仲間同士の激しい争奪戦が展開されます。そして、この季節がすぎると和がもどり、生まれた子供を外敵から守る団結心がよみがえります。獅子舞の構成は(氏子の繁栄)を祈願し(強く、たくましく生きる)ことを神前で誓う意味が含まれます。
演出 舞は世代交代の一時期を想定したものであり、個々の役割が設定されます。
雄獅子(壮年期・貫禄)中獅子(青年・血気盛んな若者)
雌獅子(しなやかに、男を魅了する色気)
効果 雄獅子、中獅子は強さをアピールした、たくまそく、勇壮な舞いを表現する演技力雌獅子は、美しく目立つ存在、しなやかさ、の演技力が求められます。
順序 1、三頭とも、自己アピールする。
2、雌獅子がくし・雄獅子、中獅子は息を殺し雌獅子の匂いを頼りに全神経を集中して探し回る。
3、やがて一頭の雌をめぐって本能を前面にだした争奪戦がはじまる。
喧嘩は激しく、勝者は相手を圧倒する迫力と勝利の喜びを表現。敗者は屈服を表わす。
(喧嘩は2回戦、双方とも1回は勝者となる)
4、争いが終わり、平和がもどったことを喜び三頭が輪になって踊り、最後はすべて丸く収まる。

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熊野社

當村の鎮守なり、慶安2年社領十石の御朱印を賜り、鎮守府将軍秀衡の勧請なりと傳るのみにて、證すべき記録もなければ信ずるに足らず、鳥居の前に一條の往来あり、往古は此街道を隔てて西に鳥居ありし由、今もそこを字して鳥居を云、往来北の方市場村より入、高麗川を渡て社の前に至れり、當村と四日市場村の間を過て、高麗郡中新田に貫けり、鎌倉古街道なりといへり。

新編武蔵風土記稿



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