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早稲田大学北に鎮座する。 崇神朝のころ神託によつて勧請された社であり、その後、日本武尊が東征の折にこの地の霊威を感じられて、天下泰平・国家鎭護のため大己貴神・少彦名命を加え祀つたという。 |
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中氷川神社 狭山丘陵の北麓に位置する三ヶ島は、古くから畑作を中心とした農業地域として発展してきた。三ヶ島の地名は、開村当時は家数がまだ少なく、村内に三ヵ所の小さい集落があるだけであったため、遠方から見ると、あたかも原野の中に三つの小島が浮かんでいるようであったことに由来すると伝えられている。当社は、この三ヶ島の人々によって累代奉斎されており、鎮座地も当社にちなんで宮ヶ谷戸と呼ばれている。 当社の境内は、県道所沢青梅線のすぐ南側にあり、鬱蒼とした杉檜の混淆に囲まれて、丹塗りの拝殿が神さびた雰囲気の中に精彩を放っている。また、参道の両脇には桜が植樹されており、春には花見がてら参詣に訪れる人も多い。この境内が、北東から南西にかけて、非常に細長い形をしているところから、かつて当社は長宮とも称されていた。当社の所蔵する数々の裁許状や、社領安堵状などを見ても、「中氷川神社」と記されているものはごく少なく、その大部分が「長宮明神」もしくは「長宮中氷川神社」などと記されたものであるところから、当時においては、長宮の方が一般的な呼称として広く知られていたと考えられる。 ただし、長宮の呼称については、前述した境内の形からきたとする説のほかに、永禄9年の北条し制札に「中宮」と記されているところから、元来は社号を略して中宮と称していたのが、いつしか転じて長宮となったのだとする説があり、現在は、この説の方が有力である。 社記によれば、当社は崇神天皇の代に、社託によって勧請された社であり、初めは素盞鳴尊と奇稲田姫の二柱を祀っていたが、日本武尊が東征に際してこの地を通り掛かった時に霊異を感じ、これに大己貴命・少彦名命の二柱を併せ祀ったと伝えられ、以来、身分の上下を問わず広く信仰を集めるところとなった。 『延喜式』には、武蔵国四十四座の一つとして「中氷川神社」の名が記されている。ここに記されている「中氷川神社」は、古くから当社のことであるとも、また市内の山口にある同名の神社であるともいわれているが、両社共に式内社であることを裏付ける確証が得られていないために、今日においてもまだ結論は出されていない。ただし、『神祇志料』や『旧神祠記』などの古書には、中氷川神社の鎮座地は三ヶ島とされており、文化10年に地頭の沢次郎右衛門が神職の宮野出雲に宛てた文書の中にも「中氷川神社長宮明神の儀は東照宮様より御朱印被下置、殊に延喜式内の社格、且神主先祖大坂御陣供奉仕候」と記されている。明治に入ってからは氏子の間で式内社としての社格を求める運動が起こり、明治27年には県知事銀林鋼男に対して式内社格確定願が出されている。 神宝として、銅鏡四面・曲玉二個・剣一口・卜部芳良の筆による社号額・天正五年銘の本地仏の阿弥陀三尊を打ち出した懸仏など多数がある。これらを納める一間社流造りの本殿もまた、側面や扉をはじめ、柱や梁などに至るまで、竜や獅子などの細かな彫刻が施されており、江戸時代中期の建築美を今に伝える貴重な文化財となっている。 このほか、当社の造営や修復を伝えるものとして、正長元年、天文23年、寛延2年の棟札や、数多くの近世文書が存する。ただし、正長と天文の棟札は、残念ながら当時のものではなく、文政5年に複製されたもので、いずれも裏面に「文政4年已12月舊棟札紛失ヲシル同月19日訴社寺奉行松平周防守様御下知之上今如舊書収本宮あい矣」と記されている。 なお、中氷川神社の社号については、中武蔵にある氷川神社の意であるとか、足立郡大宮(現大宮市)にある武蔵一の宮の氷川神社と、西多摩郡氷川村(現東京都西多摩郡奥多摩町)にある氷川神社(これを上氷川神社とも称す)との中間にあることに由来するなどの説があるが、いずれの説もまだ推測の域を出ていない。 社家として代々当社の祭祀を司っている三ヶ島家は、維新前は宮野姓であり、『風土記稿』にも「神職宮野出雲」としてその名が見える。同家の祖は、藤原時平であると伝え、その次男の行平が天慶元年に当地に居住して以来、代々神職を務め、昭和55年に逝去した信で26代を数えたが、現在は市内糀谷の八幡神社を本務社とする中義智が奉仕している。 埼玉の神社 |
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長宮明神社 社領十石の御朱印を賜はる、祭神は素盞嗚尊・稲田姫・大巳貴命・少彦名命の四座を祀れり、相傳ふ當社は神名帳に載たる中氷川神社なりとぞ、證とする所は古き棟札ありと云、其文に武州入東郡宮寺郷、中氷川神社殿造正長元年9月23日、また天文23甲寅年4月21日、社造營のときの棟札あり、文は大抵前に同じ、此二枚は今棟木を穿ち凹めて其内に収め、木を埋めて其上を蓋ひ、ただその寫のみを傳ふ、その文體當時のものなるべく覺ゆれど、ただ疑はしきは斯の如き證據あらば、などか中氷川の神號を用ひずして長宮とは號するや、別にゆへあるか、又中宮と云べきを誤り傳へてかく唱ふや。 槻木。本社に向て右にあり、四百餘年の古木なりと云。 末社。荒脛社、手無槌・足無槌を祀る。 神職。宮野出雲、家系詳ならず、按に正長の棟札に神主左衛門太夫家吉、天文の札に新左衛門尉とあるは、出雲が祖先なるにや、今も八王子北條氏照の文書を蔵す。 新編武蔵風土記稿 |
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中氷川神社 中氷川は奈加比加波と訓べし〇祭神素戔鳴尊、大己貴命、少彦名命、(地名記)〇三箇島村に在す、(同上)今長宮大明神と称す、例祭月日、○頭注云、日本武東征之時勧請、稻田姫也、 或云、氷川村にあり、○諸社一覧記に、氷川社在江戸四谷、此所入間郡也と云るは誤り也、 此邊は豊島郡にて、夫より新座郡を経て、入聞郡は遙に西にあたれり、此説信用べからず、 社領 当代御朱印高十石 神社覈録 |
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中氷川神社由緒 当社は崇神天皇の御時、神託によって勧請された社であり、素戔鳴尊と奇稲田姫命の二柱を祀る、其後、景行天皇の御時、日本武尊が東征に際してこの地を通り掛かった時に霊意を感じ、天下泰平、国乱鎮護の為、大己貴命。少彦名命の二柱を併せ祀ったと伝えられる、「延喜式」神名帳に記載される「武蔵野国四十四座の一つ中氷川神社」と伝える古社である、「神祇志料」や「旧神祠記」なとの古書には、中氷川神社の鎮座地は三ケ島とされており、文化10年に地頭の沢次郎右衛門が神職の宮野出雲に宛てた文書の中にも「中氷川神社長宮明神の儀は東照宮様より御朱印被下置、殊に延喜式内の社格、且神主先祖大阪御陣供奉仕候」と記されている。 狭山丘陵の北麓に位置する三ケ島は、古くから畑作を中心とした農業地域として発展してきた、三ヶ島の地名は、開村当時は家数がまだ少なく、村内に三ヶ所の小さい集落があるだけであったため、遠方から見ると、あたかも原野の中に三つの小島が浮かんでいるようであったことに由来すると伝えられている。 境内か、北東から南西にかけて、非常に細長い形をしているところから、かつて当社は長宮とも称されていた、当社の所蔵する数々の裁許状や、社領安堵状などを見ると「長宮明神」もしくは「長宮中氷川神社」などと記されたものが多い、永禄9年の北条氏照制札には、「中宮」とも記されている、当社については、足立郡大営(現さいたま市)にある武蔵一の宮の氷川神社と、西多摩郡氷川村(現東京都西多摩郡奥多摩町)にある奥氷川坤社とともに「武蔵三氷川」と言われている。この三社は、ほぼ一直線に並んでおり、本宮、中宮、奥宮の関係になっている。また本殿天井には、極彩色な「龍」が描かれており、水や龍神と深いつながりの「大宮氷川神社」との関係も興味深い。 神宝として、銅鏡四面、曲玉二個、剣一口・ト部芳良の筆による社号額、天正5年銘の本地仏の阿弥陀三尊を打ち出した懸仏など多数がある、この懸仏は直径40.5cm、高さ30.4cmあり、円形の銅板表面には、中央に聖観音、右に阿弥陀、左に釈迦の三尊を鋳出し、三尊はそれぞれ連台にのり、円形光背をつけている。また上部には釣り下げるための釣手耳があり、背面は表面の突出によって凹んでいる。古くより中氷川神牡に伝えられた神仏習合信仰の遺品であり、表面には「武州入東郡宮寺郷三ケ嶋村、天正5年9月吉日、林泉坊、願主新左衛門」等の銘文がある、埼玉県下でも数少ない貴重な文化財である、これらを納める一間社流造りの本殿もまた、側面や扉をはじめ、柱や梁などに至るまで、龍や獅子などの細かな彫刻が施されており、江戸時代の建築美を今に伝える貴重な文化財となっている、さらに、拝殿向背には虎の彫刻、光背柱には獅子と龍、水を吐いている龍、花の彫刻等も多数ある、このほか、当社の造営や修復を伝えるものとして、正長元年、天文23年、寛延2年棟札や、数多くの近世文書がある。 社家として代々当社の祭祀を司っているのは、三ケ島家と中家である、三ヶ島家は、維新前は宮野姓であり、『風土記稿」にも「神職宮野出雲」としてその名が見える、中家は古尾谷城主中築後守資信を遠祖とする、文治2年宮廉氏より六代氏重まで神職であったが、応長元年七代良円より本山派修験玉蔵坊(後に竜蔵院と改める)となる、復飾して姓を中と名乗り再ぴ神職となり、現在に至る。 社頭掲示板 |