山口小学校西に鎮座する。 大宮の氷川神社と西多摩郡氷川村の上氷川神社との中間に鎭座するので、中氷川神社と称されたという。但し上氷川神社は式内社でない。 昭和20年にGHQの民間情報教育局局長であったダイク准将(K. R. Dyke)が「民間のまつりをみたい」という申し出を東京大学の岸本秀夫助教授にしたところ11月25日に、当社で特別に祭礼がとりおこなわれ、のどかな村祭りを見物した民間情報局一行が日本の「神道を認識し直し、民衆の神社信仰を見直した」といわれている。戦後の神社界で非常に大きな意味合いを担った神社。 |
中氷川神社 御祭神 素戔嗚命(すさのおのみこと) 稲田姫命(いなだひめのみこと) 大己貴命(おおなむちむちのみこと)b 七社大神 (山口貯水池の湖底に埋もれた旧勝楽寺村鎮座の七社神社を合祀) 崇神天皇の朝に創始せられ、武蔵國造の崇敬厚く、又、入間・多摩二郡にまたがる九十二ヶ村の総鎮守とし、山口城主にも尊崇され、「氷川様」と親しまれてきました。 敗戦直後の昭和20年11月、連合国軍総司令部(GHQ)が当社の臨時例大祭を視察したことは、当時の日本政府に於いては固唾を飲む重大事でした。 公式HP |
中氷川神社 当地は狭山丘陵の谷あいを流れる柳瀬川流域にある。ここは、河川沿いに集落が開けているため、その地形は東西に長く南北に短い。山口という地名は、この水の出る山の口を指して名付けられたものと思われる。当社は、このほぼ中央に当たる柳瀬川左岸の氷川耕地にあり、丘陵の中腹から集落を見下ろすように鎮座している。また、鎮座地西側は、湧水地にで、ふんだんに清水が流れ出している。 社名については、『特選神明牒』に、足立郡大宮の氷川神社と西多摩郡氷川村の上氷川神社との中間に鎮座するため、中氷川神社と呼ばれるようになったとある。『風土記稿』では当社と三ヶ島に鎮座する中氷川神社のいずれが『延喜式』に記載されている中氷川神社かを比較しているが、確たる言及は避け、次のように記している。 土人の伝へにこれ神明帳にのせし中氷川の神社なりと云、今社地のさまを見るにいかにも年ふり且村名も古くより氷川と唱ふるときは、古社なることは疑ふべくもあらざれば式内の社なるもしるべからず、されど今三ヶ島村長宮明神も中氷川の神社なるよし社伝にいひ、現に彼社に正長、天文等の棟札ありて其文に中氷川神社と記したれば当社を中氷川と云はいかがあらん 社記によると中古に至り領主の崇敬厚く、当時、山口領入間・多摩二郡にまたがる九二ヵ村の総鎮守であった。後鳥羽上皇の御宇、領主山口家継社殿造営、次いで吉野朝のころ、山口城主高治が社殿大営繕を行ったが、正平年中兵火にかかり、古器物、古文書など灰燼に帰したと伝える。 下って、天正19年、徳川家康関東移封の後、当社は社領四石三斗余を安堵され、以来、幕末までこれが続いた。 明治9年、熊谷県庁に提出した「中氷川神社諸物写」には、元禄2年の本殿棟札と天保10年の本殿上屋棟札が記録されている。現在の本殿は大社造りで、昭和7年に竣工したものである。旧本殿は現本殿造営後移転され、今は末社琴平社の本殿になっている。 別当は、字打越にあった真言宗天竜山普源院で、長く当社を管理していた。しかし、嘉永6年、安政5年と続けて火災に遭い、当社関する資料をすべて失った。 祀職については、明治2年品川県御役所に提出した復飾願いによると、神仏分離後、普源院は無住のため兼勤の多摩郡中藤村真福寺住職恵俊弟子禅範を復飾させ、山口源之進と名乗り、神職として当社に奉仕することとなった。その後、茂夫、文治、義胤、篤信と奉仕を続けている。 明治40年には、大字上山口字谷戸の氷川社、大字山口字新田の氷川社、字荒久の氷川社、字弁天前の市杵島社、字椿峯の八坂社、字山王峯の日枝社、字大塚の浅間社が合祀された。また、昭和4年には、山口貯水池建設のため大字勝楽寺字大坊の七社神社(七社権現)が合祀された。 また、これらの合祀と相まって盛んに社格昇格運動が行われ、氏子は、社殿・境内の整備を始め、基本財産及び崇敬者数の拡大に努めた。これは、明治5年、社格制定の際、同郡北野に鎮守する北野天神社が既に郷社に列せられたのに対し、式内社といわれる当社が村社となったためである。その結果、明治27年、式内社確認につき願書を提出、大正9年に郷社へ昇格、昭和12年には県社に列せられた。。 埼玉の神社 |
氷川社 社領四石の御朱印を賜ひ、外に四畝の御供免そへり、土人の傳へにこれ神名帳にのせし中氷川の神社なりと云、今社地のさまを見るに、いかにも年ふり且村名をも古くより氷川と唱ふるときは、古社なることは疑ふべくもあらざれば、式内の社なるもしるべからず、されど今三ケ嶋村長宮明神も中氷川の神社なるよし社傳にいひ、現に彼社に正長・天文等の棟札ありて、其文に中氷川神社と記したれば、當社を中氷川と云はいかがあらん、姑く疑を存せり、身體は木像にていと古色なり、打越村普賢寺持。 新編武蔵風土記稿 |