太田道灌以来、川越の総鎮守とされ歴代川越藩主の篤い崇敬を受けた。 |
由緒 川越総鎮守氷川神社のしおり 氷川の神 氷川神社は埼玉県・東京都・神奈川県の一部に分布する武蔵国の地主の神であり、総数約二百五十社鎮座している。その分布の中心は大宮市武蔵一の宮氷川神社であって、かっての構成は見沼を廻って男神・女神・火王子の三神鼎立の雄大なる規模は、諏訪の大社に比せられる全国屈指の大社であることを示している。 氷川の神は武蔵の国を流れる川から出現した神であり、水を領(うしは)く神と思われる。武蔵の国人が水稲耕作に従うにあたって、流水の霊威とその恩沢を氷川の神として斎(いつ)き奉ったのであろう。高崎正秀博士は、荒川は荒れ川であると共に神出現の現(あ)れ川であろうとして、氷川の神の源流を荒川に想定している。座田司氏(もりうじ)氏は多摩川を氷川に想定された。また海洋神でもある素神を古代人が祭った社とも謂われている。 出雲の神々を御祭神とする大宮氷川神社は平安時代の延喜式には名神大社に列せられた。更に延喜式には中氷川神社が記載されている。中氷川は所沢市山口の中氷川神社と謂われる。大宮氷川神社と中氷川神社の存在は奥氷川神社の鎮座を想わせる。座田司氏氏は西多摩郡氷川町の氷川神社を奥氷川神社に想定され、西角井正慶博士は氷川神社を含めて、武蔵国の六所の神を祀った大国魂神社を奥の社と推定されている。 斯る古代の氷川神社の中にあって、入間川から出現したという当川越氷川の神の社は国史所載の神社ではないが、古くから学会において注目された古社の一つである。柴田常恵氏は川越氷川神社は入間郡に居を構えた武蔵国造が、その崇敬する大宮氷川神社を分祀し、当社を里宮として奉斎したものと想定される。 当社は太田道潅の川越築城以来漸やく文献に現われてくる。川越が城下町として政治的に経済的に発展するに及び、当社の御神威も更に輝くのであった。 本社の由緒 欽明天皇即位2年(571)辛酉9月15日武蔵国足立郡氷川神社を分祀奉斎したと伝える(元禄9年棟札・正徳縁起)。昭和23年境内地より古代祭具の石剣(滑石製)が発掘され、当社の創立がほぼ同年代であることが実証され、大宮氷川神社の里宮として武蔵国造が奉斎した神社と謂われる。 長禄元年太田道真・道潅父子は川越築上以来当社を篤く崇敬し、特に道潅は当社に詣りて、老いらくの身をつみてこそ武蔵野の草にいつまで残る白雪 との和歌を献納し(慕景集)文明10年江戸の津久戸明神を当社に見立てて崇敬した(永享記)。 天文6年の川越落城を記した河越軍記は「ここに日川の明神として戌亥にあたれる社なり。すなはち人民惣社にあがめて往詣する事さりもあへず」と記している。 天正19年徳川氏関東を領有以来歴代の川越城主の尊崇篤く、代替毎に親しく社参し太刀白銀等を献納し、毎年元旦には奉幣の儀が行われ、社家は登城城主目通りの上年賀を言上し(社蔵文書)、神徳は広く川越領中に及んだ(奉加帳)。 文禄4年川越城主酒井与四郎忠利社領を寄進し、慶長6年本多刑部左衛門、寛永18年老中松平伊豆守信綱・元禄元年信輝各社領を加増し(寄進状)社禄十五石二斗六升、社地四反三畝十歩は歴代の城主何れもこれを安堵した。社禄の他に家中ならびに町方氏子より寄進の田一町五反八畝四歩を所有していた(元禄河越市街屋敷社寺記)。 社殿は寛永5年城主酒井讃岐守忠勝本殿修復、寛永6年拝殿再建、寛永13年城主堀田加賀守正盛鳥居ならびに末社建立(元禄8年奉加帳)、元禄9年城主柳沢出羽守保明(吉保)は社殿造営費326両余の内、不足金82両余を寄進し家臣曾根権太夫等をして社殿を造替せしめた(元禄棟札・社蔵文書)。 享保5年秋元伊賀守喬房(たかふさ)は、社殿の修理費83両余を寄進し氏子と共に大修復を行い、寛保元年には屋根を銅瓦葺とし、天保13年現本殿を起工す。 現本殿は城主松平大和守済典(なりつね)造営料35両余を寄進、氏子勠力(りくりょく)協賛工費2250両にて嘉永2年竣工(社蔵文書)前後の経費併せておよそ4000両を要したと伝える。 幣殿拝殿は明治7年改築し、更に昭和15年皇紀2600年記念事業として工費八万円にて改築、昭和18年竣工した。 神輿は慶安元年松平伊豆守信綱が奉納した(元禄9年棟札)。元禄13年柳沢出羽守保明、安永8年並に天明8年松平大和守直恆再興す。直恆は寛政2年に段帳を寄進している(県史)。 明治6年郷社、明治41年神饌幣帛料供進神社に指定され、大正12年県社に昇格、昭和21年宗教法人の登記をなし、神社本庁に所属す。 摂末社の由緒 元禄2年の武蔵川越氷川神系図(社蔵)によれば、当時の摂末社は牛頭天王(ごずてんのう)・稲荷二社・人丸社の四社であった。他の末社は江戸中期以後の奉斎である。 八坂神社 氏子喜多町持の神社であった。同町小名宮元より氷川境内に遷したといわれ、寛永13年堀田加賀守正盛の時再興すという(社蔵奉加帳)。元禄年間の末社四座の一社で、元文四年六月喜多町中にて社殿を再建(社蔵棟札)切妻造柿葺(こけらぶき)、天井に竜を画く。いまは人丸神社の社殿となっている。現八坂社殿は江戸城内東照宮の遺構。 明治6年喜多町より神輿一基奉納(現存)天保11年、慶応2年修復す。昔は6月14日例年神輿を町々に引渡した。現在は月遅れで行う。 明治2年天王社を八坂神社と改称す。 人丸神社 当社は永正2年に丹波の綾部から近江を経て移住した綾部家一族が始祖である柿本人麿を奉斎した。 寛永年間に堀田正盛社殿を修復すと伝え、元禄年間末社四座の内の一社である。宝暦2年川越在住の文人等相計って社殿を再興す(人丸勘文・奉加帳)。 神像は吉野朝の歌人であり彫刻家でもあった頓阿上人の作と伝える。宮型並に衾(しとね)は明治初期の工芸家柴田是真(しばたぜしん)の作。 頓阿上人は、人麿像百体を刻んで大阪の住吉神社に奉納した(人麿研究)。当社の神像は其の一体といい静岡市吐月峰柴屋寺にも寸分違わぬ同体の神像が伝えられている。 文久2年8月御神像の盗難があったが、盗人は眼がくらんで動けず田の中に倒伏していたという。 護国神社 明治14年7月12日川越町長士族岡田秋業等相計り、内務省の特許を受けて招魂社を建立、同年7月31日西南の役殉難者二十一柱の英霊を祀った。其後戦役毎に英霊を合祀し、2969柱を奉斎する。 創立後は旧士族の温知会が奉賛し、昭和8年より在郷軍人聯合分会が主催、昭和15年川越市議会の議決によって、川越市の公祭となった。同年招魂社を護国神社と改称す。 戦後一時社号を河越宮と改め奉賛会を結成す。会長伊藤長三郎。昭和25年GHQ宗教課長ウッダード監察に来社す。日本独立後旧称に復す。 社殿は昭和10年関根平蔵の寄附により、聯合分会が改築し、同年4月12日の遷座祭には元帥山本五十六(当時中将)参列す。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
川越氷川神社 川越氷川神社は今から約千五百年前、古墳時代の欽明天皇2年に創建されたと伝えれらています。室町時代の長禄元(1457)年、太田道真・道灌父子によって川越城が築城されて以来、城下の守護神・藩領の総鎮守として歴代城主により篤く崇敬されました。 江戸時代に入ってのちも歴代の川越藩主より社殿の造営や特別の計らいを受けました。現在の本殿には緻密な彫刻が施されており、県の重要文化財となっています。 また、昔より縁結びの神様としての信仰を集め、人々のご縁を取り持ってまいりましたのは、お祀りしている五柱の神様(ご祭神)にあります。 公式HP |
文化財 本殿:埼玉県指定有形文化財 川越氷川祭:重要無形民俗文化財指定 八坂神社社殿 1637年(寛永14年)建造、江戸城内より移築):埼玉県指定文化財 書画 『川越氷川祭礼絵巻』江野梅雪:川越市指定有形民俗文化財 『川越氷川祭礼絵馬』長谷川雪渓:埼玉県指定文化財 『高島流炮術額』:川越市指定有形民俗文化財 『黒馬図大絵馬』:川越市指定有形民俗文化財 『朝鮮通信使行列図大絵馬』:川越市指定有形民俗文化財 |
郷社 氷川神社 祭神 素戔鳴命 配祀 櫛名田昆売命 足名椎命 手名椎命 社伝に云く、欽明天皇8年秋、大宮氷川神社勧請云々、新編武蔵風土配稿、之を評して云く、「イカガハアルべキ」と、太田道灌川越城に在る時、一首の和歌を献す、其の歌慕京集に見えたり。 「老らくの身をつみてこそ武蔵野の 草にいつまで残るしらゆき」 天文年間此の地兵戦の衝となりしと雖も、本社は毫も災を披らず、社頭厳然たりし由川越記に記せり、徳川氏関東を領するに及び、酒井忠利をして川越の城主たらしむ、時に酒井氏自筆の状を副へて、社領若干を寄進す、爾来城主代々の氏神となり、寛永5年酒井讃岐守本殿修造、元禄8年柳澤吉明本拝両殿造営の事ありたり、明治3年に及び氏子本殿を改造し、7年に至り、更に拝殿を改造せり、現在の社殿是なり、古来川越町総鎮守にして、城主代々の氏神たり、故に城主代替毎に、親しく参拝の事あり、且毎歳元旦幣物献上の儀ありしが、明治4年、川越県県社兼第一大区郷社たり、然るに翌5年行政区画改定の為め、単に第一大区郷社と改めらる、社殿は本殿、拝殿、境内は762坪(官有地第一種)及宮地上地林一反四畝二十三歩余(官有地第一種)より成る、 明治神社誌料 |