出雲祝神社
いずもいわいじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】出雲伊波比神社 武蔵国 入間郡鎮座

   【現社名】出雲祝神社
   【住所】埼玉県入間市宮寺 1
       北緯35度47分17秒,東経139度22分36秒
   【祭神】天穗日命 天夷鳥命 兄多毛比命
       (合祀)天照皇大神 大国主命 伊弉諾命 伊弉冉命 倉稻魂命 菅原道真
       大山祇命 市杵嶋姫命 速玉男命 事解之男命 大屋毘古命

   【例祭】9月29日 出雲祝神社例大祭
   【社格】旧村社
   【由緒】第12代・景行天皇の御代創立
       弘治3年(1557)北条氏康より朱印
       明治2年出雲祝神社と社名改称
       明治5年村社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「寄木明神社」と称していた
   【社殿】本殿流造
       幣殿・拝殿・社務所・神樂殿・水舎

   【境内社】八雲神社・護国神社

さいたま緑の森博物館の北に接して鎮座する。
景行朝に日本武尊が東夷征伐の際、小手指原に至り天穂日命・天夷鳥命を当地に祭つて出雲伊波比神社と称したという。
東国より流れてきた天穂日命が杵築湾に漂い寄った樹種の種子を当地に蒔き、後に「寄木の森」といわれた。


由緒

人皇第12代・景行天皇の御代、日本武尊が東夷征伐に当たられた時、当地においでになり、天稲日命、天夷鳥命を祭祀して、出雲伊波比神社と崇敬せられた社で、今からおよそ2000年も前に建てられた神社です。
醍醐天皇の延喜5年(905)に編纂された延喜式第九巻・神名帳に入間五座の筆頭として記された式内社です。社名の「祝」の文字は、小田原城主・北条氏康公からの朱印状、弘治3年(1557)に賜り、それ以前は現存する大宝2年(702)の棟札をはじめすべて「伊波比」が使用されています。宮寺郷十八ケ村(現在の所沢市から東京都瑞穂町に至る)の総鎮守として、また江戸時代には、徳川家康公を始め、代々の将軍より十石の社領を賜り当時から隆盛な社でありました。
なお、出雲大社とは所縁が深く、社紋も同じ亀甲剣花菱であり、いずれも結びの神、生産の神として信仰の厚いものがあります。当社の森を「寄木の森」と称しますが、出雲国の杵築湾に漂う古木を以て造られたのが寄木の造営(出雲大社)であり、天穂日命の子孫が東国に下ったときに樹種を携えてきて蒔種したのが当社の森「寄木の森」であります。明治初年には、出雲大社大宮司・千家尊福氏も参拝され、大きな額を奉納されています。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




出雲祝神社

御祭神 天穂日命 由緒 延喜式内社で人皇第12代景行天皇の御代創建。大宝2年9月29日再建す。その後幾度かの乱世にあいながらも御神徳のゆるぐことなく一般から寄木様と親しまれてきた。
弘治3年小田原城主北条家より社領を賜り、尚徳川家康将軍はじめ代々将軍より朱印十石をいただく。
明治になり有栖川宮一品親王より御染筆を賜る。
宮寺郷の総鎮守でむすびの神(生々発展の神)としてたたえられ、この宮内に大黒様(八千矛命)天神様(菅原道真公)も合祀されている。
尚古社を物語る石剣、棟札、和琴その他文献等多数の宝物あり。
祭日 本社例祭 9月29日
昭和28年1月20日

社頭掲示板



出雲祝神社

御祭神  天穗日命 天夷鳥命 兄多毛比命
由緒
延喜式内社で景行天皇の御代創立。
大宝2年9月29日再建(今より1350年前)の棟札が今尚残っている。
平安時代菅原道真の子、全国旅行の途次、先祖天穗日命を祀る当社に詣でる。
其の后弘治3年相州小田原城主北条家より社領をいただき天正18年には徳川家康将軍より朱印十石を賜り代々将軍家よりも賜る。延喜式入間五座の一に列せられ郡第一の社格を得。
和銅年中頃より宮寺郷(宮寺町ともいわる)18ヶ村の総鎮守であり、古くから寄木様と親しまれている。
出雲大社亦寄木の宮と申し共々「むすび」の神として一般の信仰が深い。
明治になり有栖川宮親王より御染筆を戴く。
昭和26年9月29日

社頭掲示板



出雲祝神社

出雲祝神社 <入間市宮寺一(宮寺村字寄木森)>
当社は、狭山丘陵の北麓、不老川の流域にある。氏子区域宮寺は古くから人々の居住した所で、縄文中期の石塚遺跡、古墳後期の元狭山久保地坑遺跡がある。当社創建を語る社伝も古く、景行天皇の代、日本武尊が東夷征伐のとき、当地小手指ヶ原に至り、天穂日命、天夷鳥命を祭祀して出雲伊波比神社としたという。
所蔵の棟札(62.8cm)に「伊都毛伊波比再造 牟射志入間臣宇助 大寶2年壬寅9月29日」がある。
当社は式内社、出雲伊波比神社の論社とされているが、他に毛呂の出雲伊波比神社、北野物部天神社、川越の氷川神社などの論社がある。
『風土記稿』に寄木明神社とあるのが当社で「御朱印社領十石を賜はる神明帳に載たる国渭地祇神社是なりと、口碑に伝へたれど、よせる証跡はなし、祭神は素盞鳴尊を祀ると云、本社幣殿拝殿等備りて前に木の鳥居を建、矢寺・荻原・小谷戸・大森・中野・坊・二本木等七村の鎮守なり、此辺を宮寺郷と号することも、当社に権与せしならんと云」とあり、また『武蔵野話』に「寄木宮とて素盞鳴尊を祀る、恐らくは出雲伊波比神祠ならんか、此に依て此地を宮寺といえるなるべし」とある。これによって江戸期当社を寄木宮、祭神を素盞鳴尊としていたと思われるが社蔵文書の北条氏康朱印状には「出雲祝神社中、棟別之事、指置之畢横合之儀不可有候、依如件、弘治3年丁已11月27日、狩野大膳亮、庄式部少輔奉之」とあり、天正一九年徳川家康朱印状は「大明神」名であり、様々な名称で呼ばれたことがわかる。
地名にも残る「寄木」については、社記に「この辺の氏族は出雲系で、出雲の国杵築湾に漂う木を取りあげ造られたのが出雲大社であり、天穂日命が東国に下ったとき杵築湾に漂い寄った樹種を携えてきて播種したのが、当寄木の森」と伝えている。
現在、祭神は天穂日命・天夷鳥命・兄多毛比命の三柱を主神に、菅原道真公を始め一一柱を相殿に奉斎している。道真公については、三男道武が全国行脚の途次、当社に参詣、持参の菅原像を再拝して社の牛寅の方向に祀り、松・梅・桜を植えたという古記録があり、「松ノ木ヶ谷」「梅ノ木ヶ谷」「三本桜」の地名が現存している。
当社には石棒があり、社記に「当社の神体は(以前)一個の石であった。長さ七寸(23cm)ほどの石棒の断片で、上半分は出雲大社に、下半分は当社に天穂日命が持参されたもの」とある。
大宝二年の棟札のほかに、「正安3歳辛丑3月再開 武蔵入間郡宮寺郷入間重太度利宮寺中」とある鳥居棟札(70cm)も保存され、古社であることを物語っている。
明治2年、出雲祝神社と社名を一定し、同5年に村社となる。

埼玉の神社



寄木明神社

御朱印社領十石を賜はる神名帳に載たる国渭地祇神社是なりと、口碑に傳へたれど、させる證跡はなし、祭神は素盞嗚尊を祀ると云、本社幣殿拝殿等備りて前に木の鳥居を建、矢寺・萩原・小谷戸・大森・中野・坊・二本木等七村の鎮守なり、此邊を宮寺郷と號することも、當社に権與せしならんと云。
神職。北野村天神神主、栗原左衛門兼て司どる。

新編武蔵風土記稿



重闢茶場碑及び茶場後碑

市指定文化財(史跡)
追加指定及び名勝変更年月日 平成26年6月1日
重闢茶場碑と並んで建つ「茶場後碑は、明治9年(1876)造立で、碑文の頭書きに「重建狭山茶場碑」と刻されているとおり、重闢茶場碑の内容を継承しつつ、その後の侠山茶業の歩みが記されている。内容は、宇治茶と対比させながら狭山茶づくりの変遷、海外輸出の開始と宇治狭山茶の評判、茶栽培以前の地理的状況と狭山茶処が成立するまでの経緯、先人達の顕彰、お茶の訪能などである。
撰文は儒学者、啓蒙思想家としで知られる中村正直、題額と碑文は、幕末三筆の巻菱湖に師事し菱湖四天王と呼ばれた能筆家の萩原秋巌、字彫りは石工仲間から江戸一の大石屋と讃えられていた廣瀬群鶴である。
茶場後碑は、重闢茶場碑と対にすることで、狭山茶業の復興からその後の発展の歴史を知ることのできる重要な資料である。また両碑は、撰文、書筆、刻字に、一流の人物が携わっており、石材工芸史上においても価値が高い。
平成26年10月
入間市教育委員会
入間市文化財保護審議委員会

社頭掲示板



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