吉見神社
よしみじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】横見神社 武蔵国 横見郡鎮座

   【現社名】吉見神社
   【住所】埼玉県熊谷市相上1
       北緯36度5分35秒,東経139度24分41秒
   【祭神】天照大神
   【例祭】4月17日 春日待
   【社格】旧郷社
   【由緒】和銅六年(713)創立
       

   【関係氏族】
   【鎮座地】

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】東宮社・伊奈利神社・天神社

古くは神明社や天照太神宮と称し、上吉見領の総鎮守だったという。


吉見神社

当社は『風土記稿』に神明社と載り「古へは上吉見領の総鎮守なりしが、名村へ鎮守を勧請して、今は村内のみの鎮守とせり、社の傍に纔の沼あり、神竜潜み住と言伝ふ、神主須永大内蔵 入間郡塚越村勝雅楽が配下なり」と説明している。
上吉見領とは『風土記稿』に見える領名で、村岡・手島・小泉・江川下久保・屈戸・津田・津田新田・相上・玉作・小八ツ林・箕輪・甲山・向谷・高本・沼黒・吉所敷・中曾根・和田・上恩田・中恩田・下恩田・原新田・平塚新田の二三か村である。
この二三か村は、現在の大里村を中心に熊谷市と江南村の一部に当たり、当社はこのほぼ中央に位置する相上にある。
ここで注目すべき点は、二三か村のうちに上・中・下の恩田があることで、この恩田は、鎌倉円覚寺正統院文書貞和5年(1349)のものに「武州恩田御厨」とあり伊勢神宮の神領であったことが知られる。御厨は、平安時代に荘園が全国的に広がり、公的な神宮の財源であった神郡・神戸・神田の実が失われ、神宮の私経済的な一種の荘園として発達したもので、年貢として上分米を神宮に納め、あるいは土地の産物を供進した。この御厨で伊勢神宮の分祀を祀ることは広く行われている。当社もこの例の一つとして天照大神を祀ったと考えられる。なお、中恩田には豊受大神を祀る神明社があった。
当社には、創建を物語る文書が何点か伝えられている。このうちの一つに、和銅6年(713)の伝として、景行天皇56年に御諸別王が当地を巡視した折、田野が開かれず不毛の地であることを嘆いて、倭国・山代国・川内国・伊賀国・伊勢国の多くの里人を移して、多里郡(大里郡)を置き、後に豊かな地となった奉賽として、太古に武夷鳥命が高天原から持ち降ったという、天照大神ゆかりの筬を神体として天照大神を祀り、以来、御諸別王の子孫が代々神主として奉仕している、とある、現宮司須長二男家はこの末である。
また、別の文書には、御諸別王が関東下向の時、当地を開こうとして天照大神に祈誓したところ、こんこんと泉が湧き出し、数万町の水田が日ならずして成った、ここに天照大神を斎い祀った、とある。
このように、当社の創建を語る時には、必ず天照大神を祀って水田を開き豊かな土地となる話が基になっている。これは、伊勢御厨の設定につながる伝承と言えるであろう。
『大里郡神社誌』は、大里村玉作の須藤開邦家文書として『当社は上吉見領の総鎮守であったが、応永(1394−1428)の戦乱により神領を失い、天正のころ(1573―92)には旧五か村と呼ぶ相上・玉作・箕輪・甲山・小八ツ林の鎮守となった』と載せている。ちなみに、旧神領は七五〇貫の地であったという。

埼玉の神社



相上神楽

村指定無形民俗文化財 相上神楽
 指定  昭和54年5月14日
 所在地 大里村大字相上
 期日  7月15日、吉見神社境内
 相上神楽の起原は、江戸時代中期、天保6年(1835年)8月に関東地方を襲った嵐により、荒川や吉見神社の背後を流れる和田吉野川の堤防がまさに決壊しようとしていた。その時、村人が吉見神社に祈願したところ災害を免れることができた。こののち村人が神楽殿を建設し報賽したのが始めと言われている。
 相上神楽は、坂戸市の大宮住吉神楽の系統に属し、曲目は、国取、三人和合、氷の川、岩戸開等であったが、昭和40年代後半に奉楽されたのを最後に途絶えてしまった。
 そして、平成7年、相上地区の住民により神楽を復活させようと相上神楽保存会が設立され、子供たちを中心に伝承者より神楽舞や囃子を受け継ぎ、大祭のおりに奉楽している。
大里村教育委員会

社頭掲示板




郷社 吉見神社

祭神 天照皇大御神 本社は元と神明社と称す、創立年代詳ならず、但し社傳に云く、「人皇十二代景行天皇ノ御宇、御諸別王、東国巡視ノ際、此地ニ来リ給ヒシ頃創立」云々と、御神体は御鏡に坐ます、新編武蔵風土記稿に云ふ、「古ヘハ上吉見領ノ総鎮守ナリシカ、各村へ鎮守ヲ勧請シテ、今ハ村内ノミノ鎮守トセリ」と見え、現に当村の氏神なり、明沿9年村社に列せしが、17年2月6日郷社に昇格す、社殿は本殿、幣殿、拝殿、其他拝礼所、八足門等にして、境内895坪(官有地第一種)古来吉見の社と称し、老杉古檜叢生し、其の間櫻花介在す、春時紅花緑翠●差として、美観を呈す、社記に云く、「社ノ傍ニ■ノ沼アリ、神龍潜ミ住ト云伝フ」
当社宝物には和銅年間の古文書を始め、後宇多帝当時の旭日章旗一流、紺紙金泥の大同類聚一巻等あり、

明治神社誌料



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