当社を横見神社に比定する説がある。 |
氷川神社 氷川神社<吉見町上細谷一四五(上細谷字飯玉)> 吉見丘陵の東端は、古くから開発された所で、谷あいの湧き水を利用して谷田が形成された。集落は、この谷田と並行して南北に延びる自然堤防上にある。この地は、中世、細長い谷という意から細谷郷と名付けられた。この細谷郷は、戦国期、上細谷・下細谷の両郷に分郷し、江戸期に入ると、更にこれらの郷から上細谷村、下細谷村、御所村、中新井村、小新井村などの村々が独立した。当社は、この折、細谷郷の惣鎮守である飯玉氷川神社(式内社に比定される横見神社)より分霊を受けたものと思われる。 社名は、『風土記稿』に「東土氷川」と載り、『明細帳』にも「寛文2年(1662)4月、今日と白川殿に於て東上氷川許可あり」とある。 しかし、この東土については明らかにできない。別当は『風土記稿』によると、今泉村金剛院末の真言宗蓮性寺である。 同寺は、明治初年に廃寺となっている。現在、当社境内には、明和4年(1767)に蓮性寺法印観蓮が建立した稲荷神社がある。 蓮性寺の後、当社の祭祀に当たったのは、当地の原口孝慶である。孝慶が神職となったのは、名主家として代々郷民の訓導に力を注ぐ家柄に生まれるとともに、母親のキチが幕末から熱心に屋敷近くにある稲荷社を信仰していたことがあげられる。成人してからは、皇典講究所に学び、二荒山神社の神職としても活躍した。 埼玉の神社 |