横見神社
よこみじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】横見神社 武蔵国 横見郡鎮座

   【現社名】横見神社
   【住所】埼玉県比企郡吉見町御所1
       北緯36度3分9秒,東経139度26分51秒
   【祭神】建速須佐之男命 櫛稻田比売命
       『神名帳考証』(延経)「大海神」
       『神名帳考証』(信友)は倉稲魂命

   【例祭】10月14日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】和銅年間(708−715)創建
       慶長年間(1249−56)大洪水で流失

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「飯玉氷川明神社」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿・社務所

   【境内社】

地名の横見より興った神社であろう。地名は横見→吉見と変化した。
創建は和銅年間(708−715)と伝えられている。
狭山丘陵の東側の平地の中に鎮座している。
この丘陵の東側を流れる荒川は、古代より常に氾濫をくり返し、その流れを変えてきた。
当社は、荒川の氾濫によつてできたと考えられる平地の中にある。
境内に一基の古墳がある。今は社殿の側になつているが、近世は社殿の背後にあつた。古墳の形状等は明らかではないが、恐らくは、この神社もこの古墳の被葬者をまつったものであると考えられる。


横見神社

御鎮座地 吉見村大字御所
御祭神   建速須佐之男命 櫛稲田比売命
御由緒  
創立年月未詳。当社は延喜式神名帳に載する横見神社是なり、中古本郡上細谷黒岩、御所、谷口、中新井、久保田、七ケ村の鎮守にして、飯田氷川大明神と称して後今の称に改め復せり〜中略〜この樹下に石堰の埋れたるあり 然るに明治五年六月二十六日風雨落雷の時土地崩れて石蓋を発顕す。その石蓋を開くに一物の有なし蓋し太古国造県主等の墳墓ならん。これを以って旧地旧社を表するに足れり、又考証土台に飯玉明神黒岩村と載たり、新編武蔵風土記を関するに本村御所村は正保の頃までは黒岩村の地なりしが、程なく別村せしと、元禄の改めには既に別てりとあり。又同書に飯玉氷川明神を上細谷の部に出して「別当は下細谷村照明寺なれど御所村の持にて云々」とあり、この近傍古へ御所郷と称し後黒岩郷と云ふ。その鎮守七ケ村なるを以って上細谷に属し或は黒岩村に属せしも知るべからず。現在は本村に属し明治7年郷社に列せらる。

比企郡神社誌



飯玉氷川明神社

是延喜式神名帳ニ載ル横見ノ神社ニテ素盞鳴尊 稲倉玉命ナリト云傳レト□ナル據ルニハアラス 當村及下細谷 黒岩 御所 谷口 中新井 久保田 七ケ村ノ鎮守ナリ 社ノ後ニ神木トテ圍一丈五尺程ノ松アリ此下に石槨アリト云傳フ 古ハ社ニ金ノ幣束アリシカ中古洪水ノ時社共ニ久保田村ヘ流レ行テ今ハ失ヘリトソ 別當ハ下細谷村照明寺ナレト御所村ノ持ニシテ平日ハ黒岩村大寶院進退セリ

新編武蔵風土記稿



横見神社

御所の地名は、平安時代末から中世にかけて吉見を領有した吉見氏の居館が地内に築かれ、人々がそれを「吉見の御所」と呼んでいたところから名付けられた。その吉見氏は、源頼朝の弟、範頼の子孫で永仁4年(1296)まで四代にわたり当地を支配した。
当社は、吉見丘陵の東端部に近い麓の平地に鎮座している。付近には、古墳時代後期の集落跡である稲荷前遺跡があり、当社も同時期の古墳の上に築かれている。境内末社である稲荷社も「稲荷塚」と称する御所古墳群の上に鎮座しており、当地は、これら遺跡の発見から低地開発が古墳時代に始まっていたことが明らかとなっている。
社伝によれば創建は和銅年間(708-15)である。『延喜式』神名帳に載る式内社で、旧横見郡三社のうちの一社である。その中で最も早い列格は田甲の高負彦根神社で、宝亀3年(772)の太政官符にみえる。したがって、当社はその後に列した官社である。旧郡の式内三社は狭い地域に集中しており、当地一帯が朝廷から重視されていたのが分かる。式内社は、一部に有力氏族の氏神的な社もあるが、大半はその神験が高いことで列格している。それは国家の有力社として国家大事の際に神験の発揚が期待されたからである。その神験をはかるのは民衆の信仰で、例えば承和4年(837)の豊前国田河郡の四神は「水旱疾疫の災ある毎に郡司・百姓が祈祷すると必ず感応し、年が登るにつれて人々が多く祈る。」(『続日本後紀』)という申請であるし、また、武蔵国播羅郡の奈良神の例も、嘉祥3年(850)に「民に疫癘あらば祈りて癒す。」(『日本文徳天皇実録』)という理由で官社に列した。当社も、朝廷に認められるほど霊験あらたかで祈願に訪れる人も多かったに違いない。また、官社列格は名誉ではあるが経済的制約が多く、民衆の信仰に支えられたところは大きい。
中世に至ると、吉見氏が衰退し、以後は有力支配者が姿を消してしまい、当地は名主などの有力農民層の管理に移る。その混乱期の中で当社は飯玉氷川明神社と社号を改称している。飯玉は、江南町の飯玉神社の由緒に説かれるように、飯は炊いた米、玉は魂・霊の意で穀霊信仰を表している。
『風土記稿』には、当社は上細谷村の項に記されているが、「御所村の持にして」とある。これは、行政区域の変更によるもので、上細谷村域となった時期にも、旧例により御所村民の管理が続いたのであり、鎮座地は移動していない。
後に社号が旧に復しており、『郡村誌』は横見神社と記している。明治7年に郷社に列格した。なお、明治5年ごろ、境内末社として稲荷社が創建された。一説には、古墳群(稲荷塚)の保持のためにその上に建立したと伝える。

埼玉県神社庁



横見神社

横見は郡名に同じ○祭神素戔鳴尊、倉稻魂命、(地名記)○田甲村に在す、(同上)例祭、月日、
地名記書入云、御所村に飯玉氷川と称る社あり、神拝の人是を横見神社と云、然れど村役人に問に証たる事なし、又田甲村名主云、三社共に田甲村にありと、此説も亦信用がたし、伊波比神社は黒岩村にあり、高負比古神社は田甲村にあり、尤此所に横見松などあれば、横見神社は田甲村なるべし、
類社
美作國大庭郡横見神社

神社覈録



郷社 横見神社

祭神 建速須佐男命 櫛稻田比売命
創立年代詳ならずと雖も、延喜の制武内の小社に列し。当国四十四座の一に坐ます、中古当村及上細谷下細谷黒岩御所谷口中新井久保田七ケ村の鎮守にして、飯玉氷川明神社と称せり、新編武蔵風土記に云く、
「社ノ後ニ神木トテ、囲一丈五尺程ノ松アリ、此下ニ石槨アリト云フ、」
と見えたるが、明治5年6月28日、暴風雨落雷に当り、土地崩壊して石櫃発らはる、其の石蓋を開くに一物あるなし、明細帳付記して云く「蓋シ太古国造県主等ノ墳墓ナラン」と、伝云ふ、往古は社内金の幣束を蔵せしが、中古洪水ありて、社殿久保田村に流失せし時に失へりと、明治7年郷社に列せらる、社殿一宇、境内1096坪(官有地第一種)あり、
新編武蔵風土記稿及特選神名牒及当國式社考共に当社を以て式の横見神社とすと雖も、神社覈録地名記に依り田中村に在すと記し「地名記書入云、御所村に飯玉氷川と称る社あり、神殿の人是を横見神社と云、然れども村役人に問に証たる事なし」と付記す、又武蔵国式内四十四座神社命附にも「御所村ニ、飯玉氷川卜称スル社アレド、信ジカタシ、田中村ナルベシ、横見松ト云アリ」と注す、参考に供す。

明治神社誌料



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