古代、武蔵(天邪志)国造(むさしくにのみやつこ)である、笠原直使王(かさはらのあたいおみ)が、現在の鴻巣市笠原のあたりに住んでいた。 武蔵国足立神社の論社とされている。 |
久伊豆社 久伊豆社御由緒 御縁起〔歴史) 鴻巣市笠原1755 「日本書紀」安閑天皇元年閏12月条には、笠原直使主と同族の小杵が武蔵国造の地位をめぐって争ったという記事がある。笠原使主は「和名抄」記載の埼玉郡笠原郷を本拠とした豪族と推定される。当地は、この笠原郷の遺称地とされ、古い開発をうかがわせる。また、「吾妻鏡」建久6年(1196)3月10日条には、源頼朝の奈良東大寺供養に従った隋兵のうちに笠原六郎の名が見え、更に正治2年(1200)11月26日条には、源頼家の鎌倉鶴岡八幡宮参詣に従った供奉人として笠原十郎左衛門尉親景の名が見える。この両名は、笠原を名字の地とする武士と思われ、平安末期から中世にかけて南・北埼玉郡に勢力を振るった武士団である野与党に属すると推測される。久伊豆社は一般に野与党や私市党の共通の祖神とされており、当社もそのような中で奉斉された社の一つであろう。 当社は『風土記稿』笠原村の項に「久伊豆社村の鎮守なり、東光寺持、社人高橋右門は、江戸浅草田原町神事舞太夫田村八太夫配下なり」と記されている。また、当社東隣の真言宗東光寺は慶安2年(1649)に阿弥陀堂領として朱印地11石余を与え与れたという。 明治6年に村社となり、同42年には大字笠原字弐貫野の菅原神社と伊奈利社、字水井戸の熊野社、字前新田の浅間社の計4社の無格社を合祀した。 社頭掲示板 |
久伊豆社 『日本書紀』安閑天皇元年閏12月条には、笠原直使主と同族の小杵が武蔵国造の地位をめぐって争ったという記事がある。笠原直使主は『和名抄』記載の埼玉郡笠原郷を本拠とした豪族と推定される。当地は、この笠原郷の遺称地とされ、古い開発をうかがわせる。また、『吾妻鏡』建久6年(1196)3月10日条には源頼朝の奈良東大寺供養に従った随兵のうちに笠原六郎の名が見え、更に正治2年(1200)2月26日条には、源頼朝の鎌倉鶴岡八幡宮参詣に従った供奉人として笠原十郎左衛門尉親景の名が見える。この両名は、笠原を名字の地とする武士と思われ、平安末期から中世にかけて南・北埼玉郡に勢力を振るった武士団である野与党に属すると推測される。久伊豆社は一般に野与党や私市党の共通の祖神とされており、当社もそのような中で奉斎された社の一つであろう。 当社は『風土記稿』笠原村の項に「久伊豆社 村の鎮守なり、東光寺持、社人高橋右門は、江戸浅草田原町神事舞太夫田村八太夫配下なり」と記されている。また、当社東隣の真言宗東光寺は慶安2年(1649)に阿弥陀堂領として朱印地一一石余を与えられたという。 明治6年に村社となり、同42年には大字笠原字弐貫野の菅原神社と伊奈利社、字永井戸の熊野社、字前新田の浅間社の計四社の無格社を合祀した。 埼玉県神社庁 |