創建年代等は不詳、高塙(高鼻)郷の鎮守社で高塙明神社と号した。 明治期になると、上木崎村の副戸長を努めた市川治右衛門は、当社を延喜式内社の足立神社であると主張し、社名変更を行った。 |
足立神社 当社は開化天皇御代創立延喜式内足立神社と口碑に伝称されている。又、古来高塙明神社とも云い古く当地方を高塙郷と称したことに因るとも云われる。近世、上木崎・下木崎・北袋・瀬ヶ崎・針ヶ谷五村の鎮守の神として崇拝される。 社頭掲示板 |
足立神社 当社の社名は、江戸期まで高塙明神社であった。この「高塙」というのは、中世、浦和市から大宮市にまたがる「高塙郷」であると考えられ、この郷の鎮守として祀られたのが当社であると思われる。この時期、当社に関与した氏族は、当郷を開発した在郷地頭の高塙(高鼻)氏であろう。高塙氏の初見史料は、『吾妻鏡』文治五年(一一八九)七月十九日条の「高鼻和太郎」であり、ほかに浦和市本太鎮座の氷川神社に伝存する宮殿の宝徳3年(1451)9月24日の墨書銘「大檀那高嚶カ衛門盛影」「地頭たかはな殿」がある。 『風土記稿』上木崎の項には「高塙明神社 祭神猿田彦命、當村及び下木崎・北袋・瀬ヶ崎・針ヶ谷五村の鎮守なり、境内に観音堂あり」とある。これを見ると、祭祀圏は中世の高塙郷から縮小したものの、江戸期も当郷の有力社として存在していたことがうかがえる。 祀職は、大宮市高鼻鎮座の氷川神社社家『東角井家日記』文化7年(1810)10月の記録によると、「木崎村高鼻村大明神禰宜村田近江殿」とある。村田近江は、吉田家配下の氷川神社社家触れ下であった。 明治期になると、上木崎村の副戸長を努めた市川治右衛門は、当社を延喜式内社の足立神社であると主張し、社名変更を行った。 埼玉の神社 |