加茂神社
かもじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】足立神社 武蔵国 足立郡鎮座

   【現社名】加茂神社
   【住所】埼玉県さいたま市北区宮原町4-8-1
       北緯35度56分44秒,東経139度36分32秒
   【祭神】別雷命 倉稻魂 伊弉諾命 伊弉冉命 菅原道眞 素盞嗚尊
   【例祭】 10月5日 例祭
   【社格】
   【由緒】創建は不詳
       宝暦3年(1753年)の石燈籠あり

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の有無不詳

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「加茂之社」と称していた
   【社殿】本殿
       

   【境内社】

宮原駅北に鎮座する。
古代の地形を考えた時、この辺りは湖沼の中であつた。
京都上賀茂神社を勧請したと伝わり、別雷(わけいかづち)の神を祀る。別雷神はあらゆる災難を除く守護神で、五穀豊穣を祈願し加茂宮村の鎮守として崇められた。


加茂神社

鎮守 加茂神社
鎮座地 大宮市宮原町4−8−1
御祭神 別雷命 倉稲魂命 伊弉冊命
    伊弉冉命 菅原道真公
境内に別に伊弉諾命・伊弉冉命を祀る三峯神社があり素蓋鳴尊(俗に天王さま)を祀る神輿殿があり御神輿に納められてゐます。
祭典日 元旦祭  1月1日
春祭(祈年祭并初午祭)3月初午日
夏祭(祇園祭・天王様)7月10日
例大祭  10月5日
秋祭(新嘗祭・感謝祭) 11月28日
御由緒 当神社の御創立は丈化7年徳川幕府によって作られた新篇武蔵風土記稿にも「加茂社、加茂宮村の鎭守にして社辺に古杉数株あり、土地のさま旧社と見ゆれど勧請の年代詳かならず」と記されてゐるが社前に宝暦3年4月、弘化2年12月と刻まれたもの又、文政10年8月御遷宮と刻まれた石灯篭もあるので相当古い御鎭座であることがわかります。その昔京都の上賀茂神社を勧請したものと伝えますから別雷の神を祀って五穀の豊穣と萬物を生みなし育てる神として祈り崇められて來ました。幕府の参勤交代の時代、加賀の堀丹波の守が仲仙道を往来の砌り、その妻女が遽かに産気を催したので当社に立寄り御加護を祈願したところ、産気治まり無事国許に帰着の後、玉の如き男子の出生を見たと云う。安産御礼の為奉納したという幣帛は現存しています。昔から生産、安産守護の神として信仰が厚く、上加茂宮村、加茂宮村、鍛冶村を始め近郷からの参詣も多い。明治41年附近数社を合祀して翌42年神饌幣帛供進の神社として改めて村社に指定されました。祭神の合祀により衣食住の神、延命長寿の神、学問の神、災難守護の神等が加え祀られ御利益も増えました。大正8年不幸拝殿を焼失しましたが本殿は御神威により御安泰であったので当時の氏子等は力を協せ直ちに拝殿を再建し同時に社務所をも新築しました。以来60年、神楽殿も古びて危険となり、その上社務所も時代の進展につれ手狭で不便となったため此の度氏子総代人等相謀り氏子一同の賛意を得てここに昭和の大造営が遂行された次第であります。
昭和55年4月

社頭掲示板



加茂神社

加茂神社 御由緒
 さいたま市北区宮原町4−8−1
□歴史
 当地は「風土記稿」によると、「昔より加茂社の建る地なれば、ただちに村名とす」とあり、また天正10年(1582)の「成田分限帳」に「三十六貫文武州加茂宮多門兵衛」と記されている。
 当社は、加茂宮村を縦貫する中山道の側に鎮座する。江戸期の浮世絵師、渓斎英泉の描いた「木曾街道上尾宿」の図には、緑深い森の中から「加茂大明神」の幟旗が掲げられている。
 創建年代は不詳であるが、山城国一宮の賀茂別雷神社を勧請したものと伝える。「風土記稿」は、当社を「延喜式」神名帳記載の足立神社とする説があるが正しき証左なしと否定している。
 別当は、真言宗吉祥院で、雙樹山大恵寺と号す。本尊は薬師如来像を奉安する。
 「明細帳」によると、明治六年四月に村社となり、同四十年五月、大字加茂宮字中道の無格社稲荷社、字鍛冶の無格社稲荷社、字四分一の無格社稲荷社・同境内末社稲荷熊野合社、字中島の無格社稲荷社、字構の無格社天神社、同四十一年七月、字原殿の無格社稲荷社を合祀した。
 大正8年10月、拝殿は焼失したが本殿の類焼はまぬがれた。本殿は一間社流造り、壁面には賀茂別雷神社の神事である「競べ馬」の図が彫られている。なお、境内にある文政十年(1827)八月の石灯籠には、「御遷宮本社再建立」とある。
□祭神
・別雷神
□祭祀
・歳旦祭(1月1日)・初午祭(3月初午)・夏祭り(7月14日、15日)
・例祭・お日待(10月4・5日)・新嘗祭(11月28日)

由緒書



加茂社

村の鎮守にて吉祥院の持なり、社邊に古杉數株ありて、土地のさま舊社とは見ゆれど、勧請の年代詳ならず、相傳へて足立神社なるべしと云説あれど、正しき證佐なければうけかひがたし、足立神社をいかなるゆへにてかく改しや、かたかた信じがたき説なり、式に載たる足立神社は、植田谷本村に立るをもて正しとすべし。

新編武蔵風土記稿



加茂神社

当地は『風土記稿』によると、「昔より加茂社の建る地なれば、ただちに村名とす」とあり、また、天正10年(1582)の『成田分限帳』に「三十六貫文武州加茂宮多門兵衛」と載せる。
当社は、加茂宮村を縦貫する中山道の側に鎮座する。江戸期の浮世絵師、渓斎英泉の描いた「木曾街道上尾宿」の図には、緑深い森の中から「加茂大明神」の幟旗が掲げられている。
創建年代は不詳であるが、山城国一宮の賀茂別雷神社を勧請したものと伝える。『風土記稿』は、当社を『延喜式』神名帳記載の足立神社とする説があるが正しき証左なしと否定している。
別当は、真言宗吉祥院で、雙樹山大恵寺と号す。本尊は薬師如来像を奉安する。
『明細帳』によると、明治6年4月に村社となり、同40年5月、大字加茂宮字中道の無格社稲荷社、字鍛冶の無格社稲荷社、字四分一の無格社稲荷社・同境内社稲荷熊野合社、字中島の無格社稲荷社、字構の無格社天神社、同41年7月、字原殿の無格社稲荷社を合祀した。
大正8年10月、拝殿は焼失したが本殿の類焼は免れた。本殿は一間社流造り、壁面には賀茂雷神社の神事である「競べ馬」の図が彫られている。なお、境内にある文政10年(1827)8月の石灯籠には、「御遷宮本社再建立」とある。

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