青渭神社
あおいじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】青渭神社 武蔵国 多摩郡鎮座

   【現社名】青渭神社
   【住所】東京都調布市深大寺元町 5-17-10
       北緯35度40分2秒,東経139度33分10秒
   【祭神】青渭大神
   【例祭】10月第2土曜日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】由緒不詳
       明治6年12月郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】本来は池・湧水を祀る
   【祭祀】江戸時代は「青波天神」と称していた
   【公式HP】 青渭神社
   【社殿】本殿、神明造
       拝殿・社務所・手水舎

   【境内社】

深大寺小学校北に接して鎮座する。
かつて社前に五町余りの池があり、旱魃にも涸ることがなかつたと伝えている。湧き水が湧き、青波をたたえていたことから、青波天神社とも称された。


青渭神社

御祭神 青渭大神(水神様)
由緒 創立年月日は不詳であるが、往古(三千年〜四千年以前)先住民が水を求め居住した際、その生活に欠く事のできない水を尊び祠を建て、水神様を祀ったものと伝えられている。御祭神は水披能売大神・青沼神比売命、また一説には社前大池に棲む大蛇を祀ったともいわれている。神社明細帳等によれば、当社は延喜式神明帳所載、武蔵國多摩郡八座の内にて官祭の社で、重き御社であったと伝えられている。往古は社前におよそ五町歩余の境内地があり、大池に混混と湧水あり、青波をたたえていた所から青波天神社とも称された。 この周辺は武蔵野文化発祥の地ともいわれ、清水の湧き出るところから人々の生活と密接な関連があったと考えらられる。青渭・青波共に水の意であり、水神様をまつった古社である事は疑うことはできない。
明治6年12月郷社に列せられた。旧深大寺町の総鎮守・総氏神である。なお社前にケヤキ(槻)の老樹がそびえ、市内随一の巨木で古書によれば「数百星霜を経たるものなり古き勧請なること疑うべからず」とあり昭和47年4月10日調布市天然記念物に指定されている。
又御社殿も甚だしく荒廃したため、御大典事業の一環として再建に努めた結果、平成4年10月無事竣工となり、同25日盛大に奉祝祭を斎行した。尚御社殿に権現造りで建坪三十坪、木造平屋建で屋根は銅板平葺きである。

社頭掲示板




青渭神社

神社名 青渭神社
主祭神名 青渭大神(水神様)
由緒
創立年月日は不詳であるが、往古(三千年〜四千年以前)先住民が水をもとめ居住した際、その生活に欠くことの出来ない水を尊び、祠を建て水神を祀ったものと伝えられている。御祭神は水波能売大神・青沼押比売命、又一説には社前大池に棲む蛇を祀ったとも云われている。神社明細帳等によれば、当社は延喜式神明帳所載武蔵国多摩郡八座の内にて、官祭の社で重き御社であったと伝えられている。往古は社前におよそ五町歩余の境内地があり、大池に混々と湧水あり、青波をたたえていた所から、青波天神社とも称された。旧深大寺町の総鎮守である。尚社前に槻の老樹がそびえ、市内随一の巨木で、調布市文化財天然記念物に指定されている。
北多摩神道青年会

社頭掲示板



市天然記念物

青渭神社のケヤキ
所在 深大寺元町5丁目17番地10
指定 昭和47年4月10日
神社の境内、拝殿の右前方、道路に近く鳥居の横にある。幹は目通りおよそ5.5m、高さ34m。樹齢数百年の老樹であるが、現在なお樹勢旺盛である。
ケヤキは古名では槻(ツキ)といい、『新編武蔵風土記稿』に「社ノ傍ニ囲一丈五尺アマリノ槻の老樹アリ」と、また『江戸名所図会』にも「社前槻の老樹あり、数百余霜を経たるものなり」などと見えて、文化文政の頃からすでに目立つ巨木であった。
なおケヤキは武蔵野の防風林として特色を持っている。また社前を「池の谷戸」とよばれ昔は青波をたたえていたという。この附近から主として縄文時代中期の土器が発見され、殊に打製石斧が多量に出土したのでその製造所があったと推定されるなど、古代人の住居跡である。
平成6年3月30日
調布市教育委員会

社頭掲示板



青波天神祠

深大寺より東の方三町ばかりにあり、こゝの字を池の谷戸と云、鎮座の年代を詳にせず、土人云、往古社地に池ありしが、青波たちて社前に至りしゆへかく號すと、此説は浮たることなり、又云これ式内にのする青渭の神社なりと、されど青渭神社は郡内深井村にある社是なりと云ときは、當社は恐くは式内にてはあらざるべし、青波の字青渭と相近きにより、かゝる附會の説おこりしにや、社は僅なる祠にして東向なり、傍に圍一丈五尺あまりの槻の老樹あり古き勧請なることは疑ふべからず。

新編武蔵風土記稿



御由緒

当神社は、第六十代醍醐天皇の延長5年(927年)に編纂された『延喜式(えんぎしき)神明帳』所載、武蔵國多摩郡八座の内にて官祭の社で、重き御社であったと伝えられている。
御祭神は水神様で、青渭大神(あおいのおおかみ)・水波能売大神(みずはのめのおおかみ)・青沼押比売命(あおぬまおしひめのみこと)である。
往古は、社前に凡そ五町歩余の境内地があり、大池に滾々と湧き水あり、青波を湛えていた所から青波天神社とも称された。青渭・青波共に水の意であり、『渭』とは広遠に波立つ様を云い水面に打ち寄せる意で、水神様を祀った古社である。
明治6年12月、郷社に列せられ、深大寺町の総鎮守・総氏神となる。
平成4年10月に再建・竣工された御社殿は、総青森檜葉(ヒバ)造りで大変貴重な建築物とされている。尚、江戸時代深大寺村の総鎮守は、深大寺境内にある深沙大王堂であり、深大寺は当神社の別当寺であった。

社頭掲示板



青渭神杜

青渭は阿哀奴と訓べし○祭神大己貴命、(地名記)杣保内澤井村に在す、(同上)例祭月、日、
武藏野地名考に、当郡柏の里深大寺境内に青渭の堤と云所あり、青波天神の社あり、七八十年前まで数十囲の古木ありしと也、此古の青渭神社なるべしと云り、

神社覈録



郷社 青渭神社

祭神 不詳
社伝に曰ふ「当社は其創立年代詳ならねど、延喜式神名帳にいふ多摩郡八座の一なる青渭神社是なり、旧幕府の時再度聖堂より式内社調査の事あり、古文書等数多存せしが慶元元年5月別当深大寺焼亡の際烏有に帰したり、尚天台宗浮岳山、深大寺別当職なりしが、維新の際廃せられき云云」
思ふに式内の青渭神社に関しては、深井村なる青渭神社の條に述べしが如く諸書の説一致せず、即ち神名帳考証には祭神を青沼押比売命となす、而して新編武蔵風土記稿に云、
「青披天神祠、深大寺より東の方三町計に在り、ココノ字を池の谷戸と云、鎮座の年代を詳にせず、土人云、往古社地に池ありしか、青波たちて社前に至りし故かく號すと、云々」
かくて郡内澤井村にある社を以て式内なりとの説あれば、当社は恐くは然らざるべし、青波の字青渭と相近きよりかかる説を為すに至りしかど疑へり、而して神社覈録は「澤井村に在す」となして、尚武蔵野地名考の説を引き当社を式内社なるべしと云ふと逃れたり、只神祇志料は「今深大寺にあり、青波天神と云ふ」と断ず、記して以て後の考証を俟つ、明治6年11月郷社に列す、社殿は本殿一宇を有し、境内坪数346坪(官有地第一種)あり、伝へ云ふ、往古社前に凡五町歩余の池あり境内なりしが、何時の頃にか水を落して田地となし、正徳3年検地の際年貢地と定められき、尚残余の池水は下流七ケ村の田を潤すものなり。

明治神社誌料



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