羽黒三田神社
はぐろみたじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】穴沢神社 武蔵国 多摩郡鎮座

   【現社名】羽黒三田神社
   【住所】東京都西多摩郡奥多摩町氷川1365
       北緯35度48分21秒,東経139度5分25秒
   【祭神】高皇産靈神 少彦名神 稻倉魂命 天穗日命
   【例祭】8月10日近い日曜日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】永享6年(1436)羽黒山大権現と称す
       永正3年(1506)6月三田弾正忠平次秀社殿再建
       宝永2年(1706)2月社殿再建
       安永9年(1780)再建
       明治3年村社

   【関係氏族】
   【鎮座地】

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「羽黒権現」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】

延喜式神名帳「多磨郡 穴澤神社」の論社とされている。
鎮座地の山麓の清泉湧き出る洞穴を『穴澤』と称したことが由来とされている。
元々は貞観2年(860年)土師朝臣行基が穀物の神を祀り、穴沢天神と称したことに始まる。その後、天慶年間(938年〜947年)に、京都の中央権力に反旗を翻した平将門の子の良門が戦勝を祈願して 当社に納めた八角鏡がご神体となり、永禄9年(1566年)奥多摩渓谷を支配した三田氏が羽黒神を合祀したことにより、現在の形をとり、明治維新後に、正式に羽黒三田神社となり現在に至る。


羽黒三田神社

本社南山麓に清泉湧き出する洞穴あり、これを穴澤と称した。
又、葦沢という集落名から起因したとする説もある。
左殿に天穂日命を祭り、これを調布郡祖の社と称す。一二は川邊神社と称したり。
永享6甲寅年(1436年) 村内元巣ノ森の羽黒大神の右殿に合祭し、羽黒山大権現と称する。
永正3丙寅年(1506年)六月 本郡の領主将門十六世の孫・三田弾正の忠平次秀が宿願成就に因り社殿を再建し、神地を加付し、扁額に領内惣鎮守たる旨を附記し奉納す。今現に存在す。
寛文8甲年(1665年)4月 徳川氏の代官曾根五郎左衛門吉廣本村検地の時、畠壹反六畝九歩の地の公租を除き是羽黒権現免に付したり。
宝永2乙酉年(1706年)2月 社殿を再建し、また後の安永9庚子年(1780年)更にこれをを再建する。
本殿
明治3庚午年(1870年) 官の命を奉戴し、羽黒山大権現穴澤大神両社号を併して羽黒三田大神と改正した。この時韮山県の管轄同年酉年村社に定められ、同年9丙午年神奈川県庁神祇懸り片岡大属へ伺済の上更に羽黒三田神社と改替す。
明治22年 社殿を再建す。
明治25年8月2日 神奈川県知事 内海 忠殿許可を得、羽黒三田神社蚕盛講社を設立す。
境内坪数 4507坪
境外所有地山林貮反九畝歩
大祭日 貮月(2月)17日祈年祭、8月15日例祭、11月23日新嘗祭 小祭4月17日 中祭1月1日歳旦祭 1月3日元始祭 2月11日紀元節祭 8月31日天長節祭
境内と手水石
隨神門 間口貮間 奥行九尺
神武天皇遥拝所 方六尺 高サ六尺 石垣築立アリ
石段 貮百拾七段 什器扁額壹個
由緒
永正3丙寅年6月領主将門十六世の孫三田弾正の忠平次秀宿願成就に因り、本郡惣鎮守たる告を表したる物にして松阪なり。
丈壹尺五寸五分 巾八尺 厚サ五分
鏡壹面但シ八角唐金製周囲参寸五分量目貮拾貮匁 無銘
領住者 平将門の子良門奉納せし物と云う博傅 年号不祥 御本殿 四丁
末社
本社 間口貮間 奥行貮間壹尺三扉造方五間ノ玉垣透併造拝殿 間口四間 奥行貮間
境内神社 
鹿島神社 祭神 武甕槌命
両輪神社 祭神 大巳貴命、月夜見命
八幡神社 祭神 誉田別天皇
立野神社 祭神 級長津彦命、級津姫命
大祇神社 祭神 大山祇命
琴平神社 祭神 大國主命、崇徳天皇
菅原神社 祭神 菅原道真公
出雲神社 祭神 大巳貴命、事代主命
榛名神社 祭神 埴安姫命
大正3年5月1日

社頭掲示板



羽黒三田神社

本社の御由緒
祭神 正殿 高皇産靈神 少彦名神
左殿 天穗日命  右殿 稻倉魂命
創立起源は社記に人皇56代清和天皇の御代貞観3年出雲の国の人土師連行基と云う人東国に下向し本郡御嶽山に請り神の告を蒙り該村に来り高皇産靈神少彦名神乃二拝小中一貫教育らの神を祭り是を穴沢天神と称す。由緒は本社南山麓に一箇の清泉湧き出する洞穴あり是を穴沢と称したりしたが今誤りて葦沢と云う蓋し社号の因る処なり然佐殿に天穗日命を祭り是を調布郡祖の社と称す一には川辺神社と称したり。
亦後永享6甲寅年村内元?の森鎮座の羽黒大神の右殿に合祭し羽黒山大権現と称し亦後征東将軍成良親王神地を寄附し給うと云う亦後永正3丙寅年6月本郡の領主将門16世の孫三田弾正の忠平次秀宿願成就に因り社殿を再建し神地を加付し扁額に領内総鎮守たる旨を附記し奉納す今現に存在す。
寛文8甲年4月徳川氏の代官曽根五郎左衛門吉廣本村検地の時畠一反六畝九歩の地の公租を除き是羽黒権現免に付したり。
後宝永2乙酉2月社殿を再建し亦後安永9庚子年更に是を再建す明治3庚午年官の命を奉載し羽黒山大権現穴沢大神両社号を併して羽黒三田大神と改正す。当時韮山県の管轄なり同年酉難村社に定められ同年9丙午年神奈川県庁神祇懸り片岡大属へ伺済の上更に羽黒三田神社と改称す
明治22年社殿再建す
明治25年8月2日
神奈川県知事 内海忠。

社頭掲示板




羽黒権現社

除地一段二畝二十七歩、小名南にあり、往来の傍に鳥居を立、前に石階あり、ここを入て、五町許にして本社にいたる、鳥居と石階との間に二間に四間の随身門を建てり、本社東向、一丈二尺四方、拝殿四間に二間、祭神は倉稲魂命なり、社内に穴澤天神を合せ祭れり、この祭神は高皇産靈尊・天穂日命にて、八角鏡を神體とするよし、當社の神主河邊伊織が家にこゝの社の略記を納めたり、それを閲するに貞観2年土師朝臣行基といへるが、穴澤天神とは崇めたるよし、その後天慶年中平将門の子良門が軍を起せしとき、故有て八角の鏡をこの社へ納めしと云は、今の神體なるべし、後又永正元年に将門十六世の孫、三田弾正忠平次秀祈願のことありて、社を改め作れるよし、穴澤社は式内の神社なれども、郡中矢ノ口、棚澤の二村及びこゝにもその名あり、その内いづれの社式内なるべきや定かならず、猶かの村に并せ見るべし、是より以前後宇多帝の御宇、建治3年出羽國羽黒山の神を、この邊元巣ノ森と云所に祭りして、永禄9年6月穴澤天神の社内に合せ祭れるよしをいへり、されど今は羽黒権現を本殿とし、穴澤天神を合殿せりと、例祭6月15日、神主河邊伊織。

新編武蔵風土記稿



羽黒三田神社

「羽黒三田神社明細帳」(明治12年書土)にもこれとほぼ同様の記述があり、穴沢天神は一に「調布郡祖の社」と称したとあります。宝永2年(1705)、安永9年(1780)の両度社殿を再建し、明治3年、羽黒山、穴沢天神両者を併せて羽黒三田大神とし、同9年、更に羽黒三田神社と改称したとあります。なお三田弾正忠次秀奉納の扁額の文は次のとおりです。
武蔵国多西郡川辺神社羽黒山ニ座(武蔵国多西郡川辺神社羽黒山に座す)
穴沢天神起立者人皇五十六代(穴沢天神の起立は人皇五十六代)
清和天皇御宇貞観3辛巳中穐15日(清和天皇御宇の貞観3辛巳8月15日)
祭主土師行基雨請祭日請祭■■行儀(祭主土師行基雨請いの祭り日請いの祭り陰陽の儀を行い)
勧請羽黒者協宮氷川陰宮也各川隔(勧請す羽黒は陽の宮氷川は陰の宮なり各々川隔たりて)
鎮座云云去々甲子年天下一統之凶穀(鎮座すしかじか一咋甲子の年天下一統の凶穀により)
民飢饉早速五穀成就而可豊熟守護(民飢鐘す早速五穀成就して豊熟守護し奉るべく)
寄祈願成就者領内為惣鎮守永社頭(祈願を寄せ成就せば領内の惣鎮守と為し永く社頭)
可造営之条奉願書今年豊熟志願(造営すべきの条願書を奉り今年豊熟志願)
依成就加神地奉鎮祭記者也(成就により神地を加え鎮祭肥奉るものなり)
于時永正丙寅年弾6月15日(時に永正3丙寅年6月15日)
三田弾正忠 平次秀敬白
以上の記録によって羽黒三田神社の性格がわかります。穀霊の神と穴沢天神から平将門の後裔という三田氏と羽黒派修験道がからみ合って明治維新を迎えたのです。ここで一つ疑問に思われるのはこの社前に摂社格と見える「双馬神厩」と呼ぶ社のあることです。これは風土記稿にも明細帳にも載っていませんが社殿内に二駆の木彫馬と「馬」の文字を陰刻した二枚の扇平形の石が奉納されていて、馬の神様といわれていますが、羽黒三田神社が平良門の鏡奉納といい、三田弾正の遍額といい平将門−その後裔三田氏との関係を強調するところから考えると、双馬神厩創建の始めは平将門を肥った「相馬宮」ではなかったでしょうか。ここは平将門の伝説地、絹笠、城、三ノ木戸、六ツ石、七ツ石の登山口に当ります。

奥多摩町史



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