谷保天満宮と称されている。 当地に配流された菅原道真の第三子菅原道武が創祀。 もとは、府中市本宿にあったが、養和元年、現社地に遷座。 『旧神祠記』は穴沢神社に比定している。 |
谷保天満宮 神社名 谷保天満宮 主祭神名 菅原道真公・菅原道武公 由緒 昌泰4年菅公大宰府に遷られ給う所、第三子道武朝臣この地に配流され給う。父君薨去の報に朝臣思慕の情に堪え給はず父君の尊容を刻み、天神島(現府中市本宿)に鎮座す。 養和元年11月3日裔孫津戸三郎為守霊夢を蒙り現在の地に遷座す。天暦元年京都北野天満宮造営の折、勅使の下向ありて官社に列せられ、関左第一の天満宮と称せられ、明治18年府社に列せられる。 主なる社宝 御宇多天皇勅額 「天満宮」一面(国指定重要文化財) 村上天皇寄進 狛犬 一対(国指定重要美術品) 源義経・弁慶・亀井六郎・伊勢三郎書写 「大般若経」四巻 例大祭 9月23日〜25日 社頭掲示板 |
谷保天満宮 昌泰4年右大臣菅原道真公筑紫太宰府に左降の折、第三子道武公は武蔵国多摩郡分倍庄栗原郷(現国立市谷保)に配流せられた。 延喜3年父君薨去の報に、道武公は思慕の情から父君の尊容を刻み鎮座したのが起りである。 天暦元年京都北野天満宮造営の折、当社の威霊を奉上され村上天皇の勅により神殿を造営され官社に列せられる。建治3年後宇多天皇の勅により藤原経朝書「天満宮」の扁額を納められる。 その後、道武公の裔孫津戸三郎為守は源頼朝に仕え数々の武功を立てるが、養和元年11月3日旧来の地(現国立府中インター付近)より神殿を現在の地に遷し、太宰府に模して梅香山安楽寺を興し、社務六院を置き祀典を司どった。 明治18年には府社に昇格し東日本における天満宮としては最も古く、湯島天神、亀戸天神とならび関東三天神と称される。 主なる社宝 後宇多天皇勅額「天満宮」(国指定重要文化財) 村上天皇奉献「狛犬一対」(国指定重要文化財) 菅公御染筆「法華経」 源義経他書写「大般若経」 水戸光圀公奉納扁額「天満宮」 本殿・拝殿(市指定重要文化財) 社叢(都指定天然記念物) 公式HP |
天満宮 社地一町三段、村の東の方にあり、本社二間に三間、拝殿二間半に三間南向、御朱印社領十三石五斗を附せらる、神體木の坐像長二尺五寸許、束帶、社傳に菅神太宰府へ左遷の時、三男道武玉川の邊へ遷され、星霜を送らる、菅公薨じ玉ふを聞、泣哀の餘り此像を彫刻せられしといふ、道武當地の縣主貞盛と云るもとにありて、その女を妻として一子をまうけらる、これを菅原道英と號す、後孫津戸三郎爲守、僧法然に歸依して無常を感じ自殺せしと云、此社傳いふかしといへども、此邊津戸三郎の因みあることはたしかなるべし、本宿彌勒寺に津戸勘解由左衛門尉、菅原規嗣の古碑あるを観てしるべし、當社古へは本宿にありしが、後この地に遷せりとぞ、縁起には養和元年六月三日遷れりと云ふかし、今其舊地を天神島といふ、遷座のとき假屋を設けし處を假屋坂といへりとなん、例祭毎年正月22地、2月25日、七十五膳の供具あり、又8月24日より26日まで獅子舞及角力神楽等あり。 本地堂。三間四方拝殿の東にあり、十一面観音木像長二尺五寸ばかり、立身胎蔵に黄金物ありと云。 末社辨天社。小社、本社の北にあり。 神明熊野稲荷合殿。本社の後背にあり、小社。 稲荷淡島合殿。小社、本地堂の南にあり。 三郎殿社。小社、本社の南にあり、菅神の三男道武の社といふ、例祭11月3日の夜新毅を供し、又七十五膳の供具あり、此日は此地に遷座ありし日とも、又は三郎薨去の日なりともいへり。 神寳天満宮額一面。背に建治元年乙亥6月乙丑26日書之、正三位藤原朝臣経朝とあり、社傳に後宇多帝勅定の扁額ありとは此事なり、別に水府の館より元禄3年納められし模刻あり、背に祈祷のため寄進するの由を記せり。 狛狗二疋。村上帝の寄附したまへるよしをいへど、詳ならず。( 新編武蔵風土記稿 |
谷保天満宮 谷保天満宮 東京都国立市谷保。旧府社。 菅原道真を主神とし、管原道武を配祀する。道真の子息道武(道真の子孫に道武という名前の人は存しないが、社伝によれば、実名を秘して道武と称したという)の創建によるという。古くは、本宿にあったが、養和年間に現在地に遷す。江戸時代には朱印領13石を寄せられる。例祭9月25日。 神社辞典 |
府社 天満宮 祭神 菅原道眞 相殿 菅原道武 創立は伝説に拠るに、延喜年間菅原道武の祭る所なりと云ふ、新編武蔵風土記稿に「社地一町三段村の東方にあり、本社二間に三間、拝殿二間半に三間、南向、御朱印社領十三石五斗を附せらる、神体木の座橡長二尺五寸許束帯(中略)例祭毎年正月20日、2月25日、七十五膳の供具あり」と見ゆ、初め菅神筑紫大宰府へ左遷せられし時、三男道武玉川の邊多摩郡分陪庄栗原郷(栗原は今の谷係村に当ると云)に遷され、星霜を送らる、菅公薨ずる由を聞き泣哀の余り、親ら管神の像を彫刻せられしといふ、道武は当地の県主貞盛といへる人のもとにありて、その女を妻とし一子を設け、之を道英と号せしが、道武延喜20年此地に終りしを以て、土人相議して、相殿として祭りたるなり、旧、本宿にありしを後裔津戸三郎為守なるもの養和年間に現社地に遷座せしなり(新編風土記稿による)明治6年村社と定められしが、同14年1月郷社に昇格す、同18年11月府社に上されたり。 社殿は本殿、拝殿を具へ、境内2900余坪(官有地第一種)梅林あり、又高さ一丈余の瀑ありて其水頬る清冷、夏季来り浴するもの多し。 明治神社誌料 |