穴沢天神社
あなざわてんじんしゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】穴沢神社 武蔵国 多摩郡鎮座

   【現社名】穴沢天神社
   【住所】東京都稲城市矢野口3292
       北緯35度37分58秒,東経139度31分20秒
   【祭神】少彦名命 (配祀)菅原道真 大己貴命
       『武藏演路』『名所図会』今祭神詳ならず

       本来は少彦名命ではなくこの地の土地神(穴澤神)を祀っていたのではないかと考えられている。
       菅原道真は元禄7年(1694年)に合祀。

   【例祭】8月21日 例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】孝安天皇4年3月創建
       正治元年(1199)創立との伝もある
       元禄17年(1697)造営
       明治13年10月郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】本来湧水
   【祭祀】江戸時代は「天神」と称していた
   【社殿】本殿入母屋造
       拝殿・神樂殿

   【境内社】弁天社・稲荷社・山王社・神明社

社名の穴沢は神社の下に水が湧出する大きな洞穴があつたことに由來するとされている。
境内から下へ降りる階段があり、下には弁天社がある。
洞窟の中に小さい石祠があり、神水が沸いている。
昔の巌穴は崩れ、この洞穴は二代目であるとされている。


穴澤天神社

当社の主祭神は、少彦名大神を御祀りした社である。創立は孝安天皇4年3月で、後に元禄7年社殿を改修し、菅原道真公を合祀する。例大祭は毎年8月25日で、当日は神職山本家に伝わる、武蔵流の指定文化財、江戸の里神楽が奉奏され、又、三頭の獅子を天狗により、神社入口の石段を、舞いながら勇壮に登る。市指定の獅子舞が奉納される。
 境内には江戸時代の終わり頃に、筆学を業とした原田金陵の功績をたたえて建てられた、市指定文化財の筆塚がある。
 現在の社殿は昭和61年12月に修復した。

社頭掲示板



穴澤天神社略誌

孝安天皇4年の創建にして、主祭神は少彦名命を御祀りした社で、この命は人民に医療の法や造酒の術を授けられ、特に薬の神から健康増進の神として、又、国土経営に偉功を遺された著名な御方である。天正18年(1590)に社殿を再建し元禄7年(1690)社殿の造営が行われ、その時菅原道真公を配祀する。古より文学の神として親しまれ、広く仰ぎ祀されている。
大正7年(1918)国安神社大巳貴命(大国主命)を合祀、縁結、開運の神として以後崇敬されている。三澤川右岸沿い境内下に、横穴巌洞があるが昔の巌穴は崩れ、現在の洞穴は二度目であるこれがすなわち穴澤の起源である。
延喜式内神明帳所載(延喜5年、905年撰上)に記されてる多摩八社の一社での古社で、明治6年郷社に列せられた。
社報シリーズJ
穴澤天神社 谷口邑威光寺より東北の方、三町ばかりを隔てゝ同じ往還右の方小道を入りてあり。社は山の中腹にあり。この辺を小沢が原と唱ふ。
今祭神詳ならず。後世菅神を合祭せり。祭礼は7月25日なり。又同日神楽を修行し、9月25日に獅子舞を興行す。別当は真言宗にして威光寺と号す。
『延喜式』神名帳日 武蔵国多磨郡穴澤天神社云
『武蔵国風土記』残編日 武蔵国多磨郡穴澤天神。圭田三十六束。三毛田。孝安天皇4年壬辰3月。所祭少名彦神也。云云。
当社の麓を澗水流れて多麻川に合す。その流れ隔てゝ山岨に一の巌窟あり。故に穴澤の名あり。昔の巌洞は崩れたりとて、今新に堀り穿てる洞穴あり。
洞口は一にして、内は二つに分けてあり。(内に種々の神仏の石像を造立す)
◎別当寺とは
もと、本官の他の職を兼任する意
寺社で別当の代理をする僧職
神仏混合時代は明治初期まで続き、大部分の神社には別当寺が属されていた。
一 稲城町矢野口の城山中腹祭神は『武蔵名勝図会』によれば少彦名命。元禄7年に天神を合祀。
二 風土記稿によれば、梅元坊というのが別当寺であったが、廃寺となり、延宝3年6月威光寺がこれに代わったという。
三 神名帳には「穴澤神社」とある。いずれにしても「云」は衍。
四 谷間の水。
五 『武蔵名勝図会』所収の天満天神縁起に、この山の上は峨々たる峰、下は満々たる玉川の水が流れ大淵があったが、正治年間、百日に満たないわずかの期間に、玉川は五町余向こうへ流れて、この所は平地になったとある。
稲城市教育委員会
社会教育課

社頭掲示板



江戸の里神楽

稲城市東長沼2111
0423-78-2111
(国指定重要無形民俗文化財)発行1996.2.2
神楽は古代に発生した芸能で、民俗芸能の中では最も古い歴史をもつと言われます。その起源は、神霊を慰めるために演じたもので、神に捧げる舞踊でした。「神を招き迎えたときの神霊の依りたもう座」を意味する神座という言葉が、神楽の語源と考えられます。
古代に発生した神楽は、江戸時代初期には江戸市中に伝わり、江戸庶民の好みに応じて、いろいろな形に変化します。
その一つが江戸の里神楽で、江戸と周辺の村々の神社の祭礼などで盛んに里神楽が奉納されました。この江戸の里神楽の特徴は、仮面を付けた黙劇であり、神話の世界を題材としたものを中心に演じられたことです。また演じる人たちが専業の神楽師であったこともあげられます。
現在都内には、四つの江戸の里神楽が伝承されています。間宮和麿社中(品川区)、若山胤雄社中(台東区)、松本源之助社中(荒川区)と稲城市の山本頼信社中です。
四社中とも国の重要無形民俗文化財に指定されています。
山本頼信社中の江戸の里神楽は、初代の山本権律師弘信が室町時代初期の応安6年(1373)に創始したといわれ、現在の家元山本頼信氏は十九代に当たります。山本家の近くにあった国安神社で神楽を舞ったのが始まりと言われ、『江戸名所図会』(天保7年刊)には、国安神社と仮殿・社人の建物が描かれ、この仮殿として描かれた建物が、祈祷殿としての機能をもち、諸事の祈祷や神楽を舞う場所として使われたのではないかと考えられます。
山本家には江戸時代中期の写本と思われる『神事式名録』という神楽の台本のほかに、明和6年(1769)に記された『岩井神社鈴森御神楽格式』という古文書(神楽の演目と持ち物・形相を記載)など数々の資料が残っています。これらの資料により、江戸時代から現在に至るまで里神楽が綿々と受け継がれてきたことがわかります。また江戸時代中期頃で50座の里神楽が演じられていたことが記録されています。
現在、山本頼信社中では、40数座の里神楽を演じていますが、その中の代表的な演目は次のとおりです。
〔古典もの]
天之浮橋 黄津醜女、
墨江大神、八雲神詠、天之磐扉、
剣玉生神、逐神蓑笠、天之返矢、
幽顕分界、天孫降臨、笠沙桜狩、
山海幸易、妖賊剪滅、三輪神杉、
狭穂討伐、熊曽征伐、東夷征伐、
酒折連歌、兄弟探湯、億兆豊楽、
敬神愛国、三穂崎漁釣
〔近代もの〕紅葉狩
〔お伽もの〕稲葉素兎
獅子舞
獅子の頭をつけて舞う芸能を獅子舞といいますが獅子頭につけた布に2人が入って舞う形が一般的で盆・正月・春秋の例祭などの祭りに広く見られます。
これに対して1人で獅子頭をつけて踊る獅子舞が東北・関東地方に伝えられています。関東では、1頭の雌獅子と2頭の雄獅子が1組になって舞うもので、三匹獅子舞(一人立ち風流獅子ともいう)といわれています。都内では現在休演中のものも含めると84か所で三匹獅子舞が伝えられており、特に奥多摩町、青梅市、桧原村、八王子市などの西部地域に多く見られます。
市内では、矢野口(穴澤天神社)、東長沼(青渭神社)、百村(堅神社〕、大丸(大麻止乃豆乃天神社)
の4か所に三匹獅子舞が伝えられましたが、現在は矢野口と東長沼だけで行われています。
東長沼の青渭神社獅子舞は、毎年10月1日の例大祭の日に奉納されます。その由来についての資料は残っていませんが、大正4年から23年間中断していたものを昭和12年に復活し現在に至っています。江戸時代中頃の安永4年(1775)に青渭神社祭礼に奉納された獅子舞がもとで起きた事件について記録した古文書が残っており、この時期よりさかのぼることは確かなようです。獅子の構成は大獅子、求獅子、女獅子の三頭で、大獅子には剣形の角、求獅子にはねじれ形の角がつき、女獅子には角がつきません。いずれも額に玉を頂いています。これら3頭の獅子は、武州御嶽の神、鎮守青沼の神、相州大山の神をかたどるといわれます。獅子といっしょに踊る天狗は丸く太い赤襷をかけ、右手に団扇、左手に瓢単をもっています。3頭の獅子と天狗は神社本殿前につくられた土俵を中心として舞います。
矢野口の穴澤天神社獅子舞は、毎年8月25日の例大祭の日に奉納されます。獅子舞の由来についての資料は残っていませんが、青渭神社獅子舞と同じく江戸時代の初期から中期あたりにはすでに始められたと思われます。昭和10年代に一時中断しましたが、20年代後半には復活し現在に至っています。獅子舞の構成は大獅子・求獅子・女獅子の3頭の獅子と天狗によるもので、青渭神社獅子舞とほぼ同じ舞いがみられます。祭礼当日は矢野口自治会館から穴澤天神社本殿前の土俵まで行列しますが、特に神社の石段を舞いながら登る姿は勇壮そのものです。
どちらの獅子舞とも獅子や天狗の他に、はやし方として笛吹・貝吹・歌方などが登場し、その場を盛り上げます。五穀豊穣・厄除け・雨乞い等の祈願として神社の境内で行われた獅子舞は農民の願いの表われであると同時に、娯楽の少なかった時代の楽しみでもありました。

由緒書






穴沢天神社

稲城市指定文化財
穴沢天神社獅子舞
所在 稲城市矢野口5293 穴沢天神社
指定 昭和58年3月30日
毎年8月25日の祭礼の日に奉納される。
獅子舞の起源は明らかでないが、天正年間から江大戸時代の初めにかけて、村々に獅子舞が大変はやったことが文献に残っており、この獅子舞も、その時期にあたると考えられる。
獅子舞の様式は青渭神社獅子舞と同じく、大獅子、女獅子、求獅子の三頭の獅子と天狗によるものである。祭礼当日は矢野口自治会館(以前は神社代表役員の家)から穴沢天神社まで行列するが、特に神社の石段を舞ながら登る姿は勇壮そのものである。
昭和10年代に一時中断したが、20年代後半には復活し、その後獅子舞保存会を組織し、獅子舞の保存・伝承につとめている。
平成4年9月30日
稲城市教育委員会

社頭掲示板



穴澤天神社

除地、凡六千三百坪、村の巽城山の中腹にあり。天満宮を相殿とす。「延喜式神名帳」当郡小社八座の内、穴澤天神社といへるは、則この社なりと云。「風土記」爾布田郷の下に云。穴澤天神圭田三十六束、三毛田、考安天皇4年壬辰3月、所祭少彦名神也と、これによりてみれば則この地、もとは布田郷に属せし所にて、後世川流の變遜なとありてより、分割して別村となりたるが、又祭神も少彦名命なるを、天神の号より後人あやまり覚えて、妄に社を尊くせんがために、天満宮を配し祀りて、今は鳥居も天満宮の扁額あるに至れり、又何者か縁起をつくりて云、鎌倉右大将頼朝の時、稲毛三郎重成、当国小澤七郷を領せし比、此地にすめる農夫の子十二三歳の童俄に狂気を起し、口はしりて云、此山に一社を建て天満天神を祀らば、百日の間に験あらんと。よりて正冶元年7月5日農夫こぞりて一社を草建せしかば、やがて水溢して玉川の瀬五町ほと北へ移りけると。これよりさき玉川此山の麓を流れて、里人のすめるあたりもいとせばく便あしかりしば、ここに於て若干の平地出来しかば、其まま水田をひらき、村内さかへけり。かの童子が子孫梅元坊とて、別当寺なりしが、遥の後地頭加藤太郎左衛門の時、かの梅元坊掃部といひしものに、屋敷をあたへしとて、その旧地山の麓に残れりと云々。又口碑に傳へたるは、昔の神体はいつの比か紛失して、今の神体とする所は後に作りしものなりと云。されどもこれも左まで近きものともみへず、その図右の如し。又天満宮像も別当所にあり、これは後世渡唐の天神と称するものなり。かかることの誤より式内の神と云ことも、おのづから世にしらざるやうになり行し故にや、三田領棚澤天神、及び氷川村羽黒権現相殿に祀れる天神など、いづれも、式内穴澤天神なりと云説あるに至れり。棚澤村のは、穴澤を誤りて後に棚澤とし、氷川村のは社の邊に足澤と云地名あるより、これもあなざはを唱あやまりしなどといへども、うけがたし、猶かの二村、神社の條と照し見るべし。その社を穴澤と号することは、さたかなる傳へもあらざれど、里人のいふ所は、社前の坂を下りて清水あり。その向なる山の切岸に穴あり。今は正面に白蛇の形を安し、穴の口に大黒・毘沙門二天の像あり。此穴春より秋までは草木おひしけりて入ことあたはすと也。穴の前なる清水は近郷百村の境大夫谷土と云。高岸の崩れたる所より涌出して、細谷川となり。ここへ流れ来ると云。穴澤の号はこれよりおこりしならんと。
本社。宮造にて覆屋二間半に三間西向なり。例祭7月25日。
拝殿。二間に二間半。
鳥居。石にて作る両柱の間八尺。(

新編武蔵風土記稿



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