狭山丘陵南麓に鎮座する。 瑞穂町殿ヶ谷は中世期に村上郷と称せられ武蔵7党の村上党の本拠地であり、村上党の祖である村上貫主は当地に根拠をかまえていたという。 当社は「論社」もなく、社名も古来維持されており、鎮座地の変遷も無かったと考えられる。 |
由緒 延喜式内多摩八座の一つで、寛平4年(892年)従五位下上総介高望王の創建という。その後天正12年(1584年)慶長3年(1598年)の修復を経て、享保年間(1716年〜1736年)当地方の豪族、村山土佐守により社殿の修復が行われた。また、北条・徳川氏の崇敬も篤く、多くの神領地を寄進。北条氏照より15貫文の地を、また徳川幕府は累代12石の朱印地を寄せた。現社殿は明治27年に改修。明治6年郷社に列格。明治19年内務省より古社として、保存資金の下賜を受けた。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
阿豆佐味天神社 式内社 阿豆佐味天神社について 阿豆佐味天神社社務所 平安時代の中頃の延長5年(西暦927年)に完成した国家の法律の施行細則等を定めた『延喜式』(50巻)の巻の九と巻の十にその当時の政府が公認していた神社が記載されており、この両巻を延喜式の「神名式」あるいは「神名帳」と呼んでおり、関西方面を中心に全国2,861処の神々が記載されております。これらの『延喜式』に載っている社のことを「式内社」といいます。 「式内社」というのは少なくとも西暦927年以前の調査で、当時としても筋目ただしい由緒が伝えられ、しかも神威霊験があらたかで古くから地域住民の尊崇をうけて存在した明確な社であり、その祭祀については、時の政府より奉弊のあった有力な神社とされていますから少なくとも1,060年以上の歴史を有する社ということになります。 この「神名帳」には多摩地区に於て八座が記録されておりますが、何分古い記録である為に場所の記録が不明確でこの八座が現在のどの神社に当るのか議論があるところとなっております。 しかしその中でも阿豆佐味天神社は全く異論の起らない社で当時より社名も変らず、当社についての疑問をもつ人はありません。 この様に当社の歴史はいつ、誰がどの様にして祀ったか不明瞭なほどの古い歴史をもち、アヅサミという名称の起源も不明とされておりますが古代にはミネバリ(古名・梓、学名・ヨグソミネバリ)の木で作った丸木弓〔梓弓〕を鳴らして神降しを行い、占いや口寄せをした一般的事実がありますから阿豆佐由美起源説、また落葉喬木で腎臓病に効くとされる楸(古名・あずさ)が当時は繁茂していたとされるキササゲの薬効起源説等々、諸説が称えられております。 一説には「阿豆」は味で弥の形容詞で甘いの意であり、「佐」は味の接頭語、「味」は弥で水の意味とされ、古代に狭山丘陵から流れる湧水・甘い水を祀ったものとされています。「味」を「弥(水)」に混用するようになるのは奈良後期とされておりますから上代は味佐弥神社であったと考えられております。 この語源の傍証としては、神社のすぐ西隣りに位置する50代を重ねると云う社家・宮崎氏の前庭には、裏山である狭山丘陵の神域より流れでる湧水を溜めて当地では極めて珍しい池が存在しております。そして、この周辺の地名は「安住」と昔から地元では呼ばれております。 一般的に我々の共同生活をする範囲を「社会」と云いますが社会とは古い中国語で「社」は集団の守護神、「会」は守護神にささげる春秋2回の祭の意味とされ、ここから神を中心とする人間の集りを『社会』と云う単語ができたようです。この社の神の象徴が、泉であったり樹木であったりしますが何れにしても古代より水利については極めて不便な当地としては湧水を祀ったものと推定されます。 この様に古来より自然崇拝的に地元の住民から尊崇をうけた当社も時代を経るに従って武蔵国へ進出してきた出雲系の豪族や一門が自分たちの神である現祭神の少彦名命を祀ったり、奈良地方の一族が天孫族の祖神・アマツカミを合祀しアマツカミのヤシロ(天神社)としたり、だんだんと形を整えて現在の「阿豆佐味天神社」の原型が作られたものと推定されております。 社伝によりますと寛平4年(892年)に人皇第50代桓武天皇の曽孫である常陸大嫁上総介高望王(平の姓を賜う、武家平氏の始祖)の創建とされておりますが今まで述べた傍証によりましても、その時期より一層さかのぼる歴史を有していると考えられます。 やがて鎌倉時代に入ってからは武州村山郷の総鎮守社として拝められ武蔵七党の勇・村山党の武士団よりも厚く尊崇されました。村山党の本拠地は当社より西へしばらく行ったところにあり発祥地の居館跡が今に伝承され「殿ケ谷」の地名の起源とされております。 その後も当地の支配者は鎌倉幕府より関東管領(室町幕府)・扇谷上杉氏・大石氏(滝山城主)・小田原の北条氏(八王子城主氏照公)・徳川幕府(代官江川太郎左衛門が高名です)と変って行きますが何れよりも厚く崇敬され、後北条氏よりは十五貫文の地を徳川氏よりは十二石の朱印地を神領地として寄進されております。明治維新となってからは明治6年郷社に列格、同19年には内務省より古社としての保存資金の下賜を受け現社殿は明治27年に改修が行われました。 この様に歴史の始まる以前から当地の住民はこの社を厚く尊崇し現在まで伝えたことは誠に貴いことがらであり、由緒深い社を中心に今も当地区が栄えておりますことは喜ばしいことと思います。 (奉納・氏子 石塚幸右衛門家62.3記) 鎮座地 東京都西多摩郡瑞穂町殿ケ谷1,008番地 御祭神 少彦名命 素戔鳴命 大己貴命 例祭日 3月4日 氏子崇敬者数約1,600戸 宮司 宮崎盛俊 住所〒190-12瑞穂町殿ケ谷1,020番地 電話0425-57-0439 社頭掲示板 |
阿豆佐味天神社 延喜式内多摩八座の一つで、寛平4年(892)従五位下、上総介高望王の創建と伝う。その後、天正12年(1584)、慶長3年(1599)の修復を経て、享保年間(1716-36)当地方の豪族村山土佐守により社殿の修復が行われた。また、北条、徳川氏の崇敬も厚く、多くの神領地を寄進、北条氏照より十五貫文の地を、また徳川幕府は累代十二石の朱印地を寄せた。現社殿は明治27年に改修。 社頭掲示板 |
阿豆佐味天神社 村の中ほど狭山の麓にあり、神主宮崎和泉と云、本社二間四方、拝殿二間に五間、祭神は少彦名命にて、神體はなく画像を掛く、御朱印十二石を附せらる、抑當社は式内の社當郷八座その一にして、往古より此所に鎮座すと云、されど舊記の徴とすべきこともみえず、又正しく土人の口碑にのこりたることもあらざれば、そのたしかなることをしらず、近村奈良橋村など、阿豆佐美の里と稱す、當所に近き所なればかく唱ふと云、又享保年中の棟札あり、其文の中に文明14年村山土佐守、同雅楽助及一族等土木の費を供して、社檀を再修せしこと見ゆ、文明中の再修なれば、古社なることしるべし、此文外にとるべき説もなければ、その全文を略すぬ、村山氏のこと村の條下及び福正寺、又箱根ヶ崎等所々にいたしたれば合せ見るべきなり。( 新編武蔵風土記稿 |
阿豆佐味天神社 阿豆佐味は假字也〇祭神少彦名命、(地名記)○村山郷殿ヶ谷村に在す、(同上)例祭月日、 社領 当代御朱印高十二石 神社覈録 |
郷社 阿豆佐味天神社 祭神 少彦名命 相殿 大己貴命 素戔鳴命 創立年代詳ならずと雖、廷喜式内社、当郡八座の一にして、往古より此所に鎮座せる由記録に散見す、神祇志料神社覈録等にも「村山郷殿ヶ谷村に在す」となし、又神名帳考証には豊宇氣姫命を以て祭神となす、近村奈良橘村等阿豆佐美の里と称するを以て考ふれぱ、本社は古より此地方の産土神なりしこと知らるべく、寛平年間上総介高望王の造営になる由口碑に伝ふ、宝庫に納むる太刀并に二股の鞭竹は、鎮守府将軍平良將、東夷征討の際、当社に祈て勝を得たるを以て、奉賽の為め奉納せしものなり、又享保年中の棟札の文に、文明14年当村の領主村山土佐守、同雅樂助及一族等土木の費を供して社壇を再修せし由見え、後、瀧山氏輝社領十五貫文の地を寄附せられ、爾後將軍徳川家光より、代々社領十二石を附せらる、明治の初年郷社に列せらる。 社殿は本殿、幣殿、拝殿、玉垣、水舎等を具へ、境内3310余坪(官有地第一種)あり、 社頭掲示板 |