御嶽山頂に鎮座する。 日本武尊が東征のおり、御嶽山に武具を納め「武蔵」の国号ができるという。 御嶽山には、まず大麻止乃豆乃天神(地主社・地主神)が祀られていたが、藏王権現信仰が栄んになると、藏王権現という大神を迎え、地主神である大麻止乃豆天神は、その大神の末社となつたものと考えられる。 末社大口真神は俗に「お犬様」と言われるが実はニホンオオカミ。 |
由緒 神社創立は今より2060余年前、人皇第10代崇神天皇7年と伝えられ同第12代景行天皇の御代日本武尊御東征のおり、御岳山頂に武具を蔵した為、武蔵の国号が起ったといわれています。後、第44代聖武天皇の天平8年(西暦736年)僧行基が勅命を奉じて東国へ下り、東国鎮護の為、蔵王権現の像を彫刻して、これを安置したと社伝に記されています。その後、幾多の兵乱の為荒廃しましたが、文暦元年(1234年)大中臣国兼が、御嶽権現の霊夢により、御岳山に登り改めて蔵王権現を鋳造奉載し神殿を再興して御神徳の発揚に努力し、元の如く繁栄致しました。 以来、御嶽山蔵王大権現と称し、修験の霊場として歴代の天朝の崇敬が厚く武家政治の世になっても鎌倉、室町、江戸時代の幕府および諸将の崇敬すこぶる厚く、神地、神戸、朱黒印の社領、御神宝等の奉納、寄進が数多くあり社殿の造営修繕等は、ことごとく公営で執行され、江戸時代になっても慶長10年(1605年)大久保石見守長安を普請奉行として本社以下が造営され、江戸城鎮護の御社と定められました。一時延喜式神明帳に見られる大麻止乃豆乃天神社と称したこともありますが、明治7年神仏分離の折社号が御嶽神社と改められ、更に武蔵御嶽神社と改め現在に至っております。 日ノ出祭・この祭は鎌倉期からはじまったといわれ、かつては夜明と共に神幸祭をしたところから日ノ出祭の名がついています。御岳平に仮設した祭場に、神官や白丁(神幸に携わる人)武者・講中の人々・信者等が集まり修祓をしたのち、神官を先頭に、御岳平から神社までの道程(1q余り)を、螺貝・金棒・御神旗・楽人・獅子頭・榊・太鼓・鎧武者・鉾などがつづき、それに講中や信者らが後に参加して長い行列となり、新緑の山道に古式ゆかしい鎌倉絵巻を再現します。白丁は白装束に黒烏帽子・小さな鐘をつけた襷姿、武者は重さ20s程もある鎧や兜に身をつつみ弓・槍・太刀などを持った出立で列に加わります。神社に着くと拝殿で式典があり、拝殿前に置かれた御輿に御霊をうつし神官が社宝を持って再び列を作り、社殿の回りを3周します。これは農村などの信仰の厚い当社の五穀豊穣・家内安全を祈って行なわれるお祭です。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
武蔵御嶽神社由来 社伝によれば、創建は第10代崇神天皇7年と伝えられ、第12代景行天皇の御代日本武尊御東征のみぎり、難を白狼の先導によって遁れたといわれ、古くより関東の霊山として信仰されている。 平安時代の延喜式神名帳には、大麻止乃豆天神社(おおまとのつのあまつかみのやしろ)として記さております。 山岳信仰の典隆とともに、中世関東の修験の一大中心として、鎌倉の有力な武将たちの進行を集め、御嶽権現の名で厄除・延命・長寿・子孫繁栄を願う多くの人達の参拝によって栄えました。 天正18年徳川家康公が関東に封ぜられますと、朱印地三十石を寄進され、慶長11年大久保石見守長安を普請奉行として社殿を改築、南面だった社殿を東面に改めました。人々の社寺詣が盛んになると共に、世に三御嶽の一つとして、御嶽詣も、武蔵・相模を中心に関東一円に広がり、講も組織され、現在に及んでおります。 明治維新により、御嶽神社の社号となり、更に昭和27年武蔵御嶽神社と改めました。 社頭掲示板 |
武蔵御嶽神社 武蔵御嶽神社由緒・宝物の御案内 御祭神 櫛真智命、知恵、占術、学問の神 大己貴命、大国様と云われ、農耕漁労開運招福の神 少彦名命、恵比寿様といわれ福の神 景行天皇の御代、日本武尊御東征の砌り御嶽山上に武具を蔵したため、「武蔵」の国号が起ったと云われます。 天平8年僧行基が東国鎮護の為め蔵王権現を勧請したといわれ、その後兵乱により社段が荒廃しました。 文暦元年、大中臣国兼が東国遍歴のおり霊夢を受けて御嶽山に登り、蔵王権現を鋳造奉載し、社殿を再興いたしました。爾来関東に於る修験の霊場として栄え、鎌倉、室町、江戸時代の幕府および豪族の崇敬あつく数々の御神宝の奉納があり、慶長10年大久保石見守長安が普請奉行として本社が造営され江戸城西方の鎮護の社として定められました。現在の幣殿拝殿は元禄13年に徳川幕府によって造営されたものです。 明治7年御嶽神社と改められ現在に到って居ります。 主な宝物 赤糸威大鎧(国宝) 畠山重忠により建久2年に奉納された鎧で、平安時代の最も技術のすぐれた武将の鎧である。 壮重優美で威厳ある日本の鎧の代表的なものであり日本三大鎧の一つと云われて居ります。 紫裾濃大鎧(重要文化財) 鎌倉将軍惟康親王が弘安の役のおり蒙古軍撃退の祈願のため奉納されたと伝えられています紫裾濃の鎧は鎌倉時代の武将が愛用したもので、赤糸威の大鎧より百年時期がおくれて居ります。昭和26年日米講和記念として日本の鎧の代表として渡米し、日本の武士のたしなみの奥ゆかしさを米国人に感銘させ武士道を見直させたと云われて居ります。 鍍金長覆輪太刀(重要文化財) 総長四尺三寸三分(1.31m)中身は長二尺四寸五分(74.2p)拵作り太刀として優れたものです。慶長十年徳川家康が社殿を造営された時奉納されたものです。 宝寿丸黒漆鞘太刀一口 (重要文化財) 宝寿丸太刀一口 大小対をなしています。奥州、平泉の刀匠、宝寿の作で宝寿丸といわれて居り重忠奉納の太刀といわれて居ります。 金覆輪円文螺鈿鏡鞍 舌長鐙 馬具一式(国宝) 鎌倉時代 完備した武将の軍陣鞍でこの時代の代表的なもの、殊に舌長鐙は足をのせる部分が長いので他に例のないもの。しりがい、はらがいも当時の紐くみで非常に珍らしいものです。 鰐口(都指定有形文化財) 建武5年3月安部国家武蔵国金剛座王権現鏡という銘文が刻まれ、もとは本社の社頭に下げられていたものです。東京で一番古い優れた鰐口です。 両面亀甲組紐 鎌倉時代 わづか二尺余りの組紐ですが、日本に唯一本のもので、組紐の技術としては最高のものです。表裏に亀甲の紋が編み出されて居ります。また紫裾濃のかぶとの緒のくみ方は、みたけ組といわれ、組紐のくみ方の型としてひろく知られて居ります。 蒔絵鞍(市重宝) 室町時代 大永年間つくられた品で現在5月8日の日の出祭に神馬の鞍として使用されて居ります。 長巻 二口 室町時代 長さ二尺九寸(87.9p)と一尺七寸五分(53p)柄は二つとも四尺九寸、室町時代のまゝの拵付のものです。 懸仏 (一面市重宝) 鎌倉時代-室町時代 一番大きいのが直径三尺三寸(1m)どれも蔵王権現の御姿を現し一面は鉄製他は銅製です 銅けい 一面 江戸時代 巾一尺(30p)修業の合図にたゝいた合図の道具で貞享2年、林橋の住人内田李左工門が奉納されたものです。 金小札段威二枚銅具足 江戸時代 鎧の中で当世具足と呼ばれる戦国時代以後の戦に適するように作られたものです。 大般若経箱 一台 鎌倉時代 大般若経六百巻を入れる経箱で三つの中の一つです。なお経巻は明治維新の際神仏分離のおりとり払いされ、残欠と、奥書だけが残されて居ります。 金銅丸鎖太刀残欠 二口 鎌倉時代 兵庫鎖太刀 残欠 二連 鎌倉時代 長覆輪太刀残欠 一口 南北朝時代 三点とも栫だけで兵庫鎖は足金物に三鱗の紋を刻み北条氏の奉納品、長覆輪は金銅でこしらえた銷だけが残って居ります。 鉄製俵(重要美術品) 江戸時代 末社の賽銭箱であったといわれ、慶長15年現在の埼玉県狭山市柏原の人が奉納したという銘があります。二斗俵で360余年後の現在の俵のあみ方と全く同じあみ方です。 三組大木盃(市重宝)江戸時代 徳川三代将軍家光の時、九州天草の乱平定の折、出陣の祝に使用した杯といわれて居ります 神輿(市重宝)江戸時代 元禄13年徳川五代将軍綱吉が当神社再建の時奉納したものですが、附属の金物は室町時代の作品です。現在も5月8日の日の出祭に使用されて居ります。 打刀の名刀 三十余口 室町・江戸時代 倶梨伽羅の太刀、備前長船祐定、下原照重等枚十口あり何れも貴重なものです。殊に武州、八王子在下原の刀匠のこしらえたものが六口あります。郷土資料として大切なものです。 日本武尊神像 大正時代 彫刻家、木島正夫氏の作で奥の宮祭神に因んだ尊像です。 釣燈籠(市重宝)江戸時代 鍍金の銅製で高さ一尺六寸(48.5p)慶長11年に当社を建てた折普請奉行の大久保石見守が奉納されたものです。 鳥毛頭巾 江戸時代 小田原城攻撃の折、本多忠勝が徳川家康から拝領、特に関ケ原合戦でこれをかぶり指揮をしたことで有名です。 その他多数の宝物があり、宝物殿に展示されて居ります。 由緒書 |
武蔵御嶽神社 御嶽山の歴史とその担い手 《平安時代から鎌倉-室町時代へ》 標高919mの御嶽山には、山頂に武蔵御嶽神社が鎮座し、御祭神に、神占の神である櫛真智命(くしまちのみこし)-国土豊饒の神の大己貴命(おおなむちのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)が祀られている。 また延喜式(905−927)の神名帳にみえる、大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのあまつかみやろ)としてしられるところである。 関東平野の西の一角に、その背後には秩父多摩のさらに高い山脈をつらねながらも、一際高く望むことができる御嶽山は、神の鎮まる山、人の生活に欠かせない水を供給する分水の山として、遙かな昔から信仰の対象となっていたことは、十分考えられるところである。 しかし御嶽山が山岳宗教の霊山として栄えるようになったのは、御嶽蔵王権現あるいは、武州金峯山と呼ばれた中世以降のようである。 奈良時代、役小角が、奈良県葛城の山中で修行して始めたとされる修験道は、平安時代には組織化され、紀州の大峯山を修行の場として、降魔-忿怒の御姿をもつ蔵王権現を霊神として崇め、民俗宗教として平安時代末には全国に波及、関東の山々にもこうした出伏修験の行者たちがおよんでくるようになったのであろう。 御嶽の山も奥につづく中嶽(奥院)、大嶽が一体になり、甲斐・秩父の山岳地帯はこうした山伏修験たちの格好な廻峯修業の舞台であった。 御嶽山の修験道の歴史は、聖武天皇の天平8年、行基によって開かれたとされているが、平安末修業僧源教上人によって、こうした修験者たちの廻峯修業の拠点として堂舎が開かれたのにはじまると考えられる。いま、江戸時代新義真言宗醍醐三宝院の末と称せられた、金峯山世尊寺杜僧の系譜が伝えられている。この第一世源教より江戸時代中期第二十世日応まで、その寂年月日が記録されている。 第一世源教上人は、鎌倉時代はじめ建久8年(1197)に入寂し、次を継いだ第二世法印慶悦は文暦元年(1234)に没している。これよりのち、第三世法印崇啓にいたるあいだ、無住の空白がある。 これを補うものとして、建長8年(1156)の縁起一巻が伝えられているが、それによれば、久しく神明に奉仕し、山林に修業した散位大中臣国兼が、霊夢によってこの御嶽山が、蔵王権現が垂迹した場所であることを告げられ、草庵を営み搗鐘をこしらえ修業を重ねた。三尺の金銅の金剛蔵王権現の御神体を鋳造して、法のごとくに八尺の宝殿を建て、瑞垣を四面に廻らせ、赤巌両師・勝手子守の護法の四神の祠を整え、垣の表には一間の小堂を造り五尺の不動を安置するなど、堂塔は整備され、参拝拝観の人つづき、文暦元年より建長8年まで23年の精進勤行によって繁栄するようになったという。国兼は御嶽山中興の祖と仰がれ、また神主家(大宮司家)の祖とされている。 国兼がなくなってからおよそ50年、武蔵国の古い豪族と思われる壬生氏女(みぶしのむすめ)によって、久しい間御嶽大権現の神助を蒙り、80歳の生涯をまっとうしてきたが、なお余生の安穏を願い、神の加護を頂いて来世の弥陀の来迎にあずからんとして二階の楼門を建立し、金色の釈迦如来像一体、彩色地蔵菩薩像六体、金剛力士像二体を造り、尊像は階上に安置し、仁王は階下にたてた。これは現在の随神門のはじめである。また法華経六十六部五百二十八巻を書写して、諸国および当山に奉納し、正和3年(1314)鎌倉極楽寺の長老を導師に乞うて法養をいとなんだという。これらは壬生氏置文と称される正和3年縁起一巻にのべられているところである。壬生氏女はこれより先、徳治2年(1307)長三尺径二尺五寸の梵鐘を造り、これを納める鐘楼の造営もおこなったのである。 このようにして境内の社殿、堂塔も整い、以後も周辺の豪族の寄進庇護をえて神仏習合思想のなかに御嶽蔵王権現の神威も高まり、修業の者、参詣の人の往還も次第に繁くなっていった。 南北朝初期の建武5年(1338)、やはりこの地の豪族と思われる安部国家奉納の鰐口が伝えられている。その銘に「建武五年戊寅三月十一日安部国家武蔵国金剛蔵王権現鏡大工入河重吉」と刻まれ、この時代御嶽が金剛蔵王権現と呼ばれ、こうした豪族の寄進がおこなわれた事情を明確に窺うことができる。 さらに注目すべきは、平安後期から鎌倉時代の武将畠山重忠奉納の赤糸威大鎧をはじめ、金覆輪円文螺錨鏡鞍・舌長鐙轡鞦付、紫裾濃大鎧、黒漆鞘太刀(銘宝寿〉などの国宝・重文級の奉納品はいずれも当代の武具の第一級品であり、鍍金長覆輪太刀(目釘帯金物に金峯山あるいは金の御嶽の金と見られる文字があるので、明らかに当権現社への奉納品と思われる)。これらは地方豪族ではなく、鎌倉有力武将の奉納品を伝えているのである。 また鎌倉末から室町時代にかけての、蔵王権現の懸仏四面を伝えているが、これは本尊に代えて本堂・拝殿などに掲げるもので、このことは権現社が、専ら修行の場から信仰する人たちの参詣する霊場となっていった、信仰形態の変化をしめすものとみることができる。 嘉暦4年(1329)、関東正宝蔵寺刊行の木版本大般若経六百巻が伝えられてきたが、暦応3年(1340)に檀那清原氏女の援助のもと、この世尊寺第五世沙門澄融により修覆がなされ、大中臣国兼の後継者と見られる大中臣清兼が修理檀那として名をつらねている。 降って永和4年(1378)には、長年御嶽権現を信仰して仏門に入った信女正心が、財を投じて鎌倉建長寺の直山叟啓瑞を招いて大般若経の修覆がなされたことが、明治維新の神仏分離によって失われて、今僅かに残る断簡によってしることができる。寓住信女配心は「永徳二年、三月四日禅尼正心逆修(ぎゃくしゅ=生前の供養)立之」の板碑を山上に遺している。 応永23年(1416)上杉氏憲の反乱のとき(禅秀の乱)、関東管領憲基方について全山あげて戦いに参加したといわれるが、いま残欠ながら金覆輪太刀鞘の帯金物に足利家の桐紋を刻むものが残っていて、鎌倉公方との関連を想像させる。なお、南北朝時代と思われる金銅丸鞘太刀の鞘の一部も伝えている。 多摩地方の豪族としてこのころ、最盛期にあった三田弾正忠平氏宗の親子によって、永正8年(1513)には社殿および尊像の修復がおこなわれた。正和3年以来200年、本殿は神社建築の流造りに改められ、拝殿、鐘楼、二階の楼門も修復され、このとき世尊寺は大鳥居前に修復されたものと思われる。 この修復棟札銘にはじめて御嶽神主として浜名左京亮重頼および家中の名がみえ、また北陸修験道の霊山としてしられる加賀白山の別当寺、越前平泉寺住僧貞祝威徳坊以下の名がみえ、この竣功にかかわったものとみられる。 このように中世以前においては、豪族あるいは大口の庇護に頼り一山の維持運営がおこなわれてきた。広く民衆の大きな信仰をえるには近世を待たねばならなかった。 《近世に入り御師たちの活躍》 天正18年(1590)徳川家康が関東に封ぜられて江戸に入府すると、新しい封建秩序の態勢下に組み入れる施策として、領内の社寺に次々に領地寄進状を交付したが、御嶽権現には翌天正19年11月、いままでの神領のなかから三十石の朱印地の寄進がなされた。 次いで江戸幕府開設間もない慶長11年(1606)、徳川家康と秀忠により大久保石見守長安を普請奉行として、社殿、堂舎の大規模な修復がおこなわれた。このとき、それまで南面であった社殿を江戸城鎮護のために東向きに改められたのである。本殿はおよそ90年まえ永正8年、三田氏によって造営された杜殿を踏襲して流造りの流麗な漆塗りで、瑞垣をめぐらせ、権現造りの拝殿との中間には神門がもうけられ、その周辺参道ぞいに末仕が祀られ、また壬生氏によって寄進された300年の昔の徳治2年の梵鐘をつるす鐘楼、正和3年建造の楼門も修築され、境内は面目一新、整備されたものと思われる。 山内も世尊寺とその末社観音寺を山上に、滝本に明観寺、文珠院を擁し、神主家を中央に御師集落もおよそこのころ、現在のように形成されていたと考えられるのである。 中世には秋川をさかのぼり、日の出大久野より登る参道を南御坂と呼び、遅れて江戸への交通路である青梅街道が整備されるのにともない、多摩川ぞい滝本より登る北御坂が、ともに御嶽権現への参拝路としてできていった。 南御坂のこの山上の入口には世尊寺社僧の菩提寺橋場寺があり、北御坂を登りつめた御嶽集落の入口に、神主御師の菩提寺正覚寺がこのころたてられた。 正覚寺は二俣尾海禅寺第六世天江東岳の開山とされている。 こうして一山は、御嶽権現をいただき、神主浜名氏、社僧世尊寺、三十数名の御師によって構成される宗教者だけの山上集落をなしてきた。 前代より急速に御嶽山の主導権を掌握してきた神主浜名氏は、江戸時代に入って三十石の領主(地頭)として、神事祭礼を主宰し、社僧世尊寺は仏教諸修法を掌り、御師団は神主を扶けて、祭礼行事に参加し、また神主に対して一定の義務を負うといった、三者による分担運営の態勢・組織ができていった。 すでに中世より御嶽権現の神威を背景に、民衆のあいだに御嶽信仰を広げていった御師は、慶長造営当初、南御坂坂本、北御坂坂本合わせて六十六坊と称せられた。 こうした御師団組織の存在は御嶽山の神社経営をもっとも特色づけるものであるが、関東周辺にも、神奈川県大山、群馬県榛名山、長野県戸隠山など類似の例があり、また歴史的には古く平安時代より熊野、伊勢の御師の例が著名である。 御師はもと、おいのり師という語からでたといわれ、単なる祈祷師ではなく、檀徒の参詣のおり、宿を提供する職掌として発達した。そして一度師檀関係を持つと、永続的に結ばれ、代々子孫に受け継がれていくものであった。 江戸時代に入ると、全国的に社寺参詣が盛んになり、これと相まって御師の積極的な布教活動により御嶽信仰も次第に関東一円に拡がりをみせるようになっていった。 こうしたなか、社木伐採のことで明暦4年(1658)寺社奉行により、神主・社僧・御師万事相談の上社法を決すべしの裁断は、三方相談・明暦の掟などと呼ばれ、権現杜務の重要事項を三者によって協議する態勢が、江戸初期に形成され、こののち江戸時代を通じて遵守されたのである。 さらに元禄より宝永3年(1706)にいたって、中世よりつづいてきた神主浜名氏の失脚によって、その後、浅羽・大原など外部からの神主を迎えたことは、御師団の力を伸長させ、神主(大宮司家〉の権力を弱めていく結果となった。 また五人組による三月交替の月番制度は社務と山内のすべてを取り仕切るとともに、自治組織として、相互の地位の平等と団結に大きな力となっていった。「月番日記」はそれらの記録として大切にされたのである。 江戸時代初頭にあっては、中世以来の蔵王権現に対する信仰が中心であったが、次第に日本武尊の御東征にもとつく武蔵国号の社としての権威と、その御神狗(おいぬ様)の信仰が高まり、火難・盗難・病気・愚物など諸災厄の守護神、また豊作の神−作物神として、現世利益的な民間信仰の霊山として喧伝されるようになり、農村から江戸の町、さらには漁村にまで発展していった。こうした伝播の役割を担ったのはいうまでもなく御師団の活動であった。 信仰形態が変化し、本地垂迹説が衰えはじめるなかにあって、社殿修復のため宝暦13年(1763)社木を伐採したことで、明和3年(1766)、神主・社僧と御師も処罰されたのであるが、これをきっかけに二十世つづいた社僧世尊寺の日応は引退し、天明8年(1788)別当の世尊寺は廃寺となり、何百年もつづいた御嶽山の神仏共存の歴史もついに破れるにいたったのである。 《近世末期から神社神道化》 寛延2年(1749)、素面神楽が伝えられ、その後二十数年にして安永年間、江戸真先稲荷より面神楽が伝習されてから、講中参拝の対応策として大いにこれが奨励され、太々神楽の奏上は御師にとっても、神社の経済にも大きな潤いをもたらす結果となった。 江戸時代末、当時の国学研究によって生まれた復古神道の機運に乗じて、御嶽山はますます神社神道化への道を歩むのである。文化年間から天保年間にかけて、しばしば登山滞在した吉川神道の学者斎藤義彦の影響も見逃せないものがある。斎藤義彦は天保5年(1834)には御嶽山道中記御嶽菅笠を出版し、御嶽山講中が江戸から御嶽まで参詣する道中を七五調の美文で説明しながら、美しい絵入りで紹介した人である。 こうしたなかでやがて明治維新を迎え、明治元年(1868)、神仏分離令に際しても、他の山岳宗教地にみられるような混乱もなく、これに応える形で神道への移行がおこなわれた。 すでに八十年前廃寺となっていた世尊寺本地釈迦堂は取りこわされ、釈迦像は根ケ布の天寧寺に移し、徳治2年の古鐘はつぶされ、鐘楼は鼓楼と名称を変え、山門から仁王をはずして随神門とし、神主御師の菩提寺正覚寺は土地・建物・什器を整理して住僧は山上を去り、その檀家は神主(大宮司)金井氏が引き継いで、金井氏も御師の仲間入りをしたのである。 さらに明治7年御嶽神社と社号を定め、神奈川県社に格付けされたが、のち東京府編入により府社となった。 しかし御嶽神社の形態はできたが、御師にとっては、布教、配札の禁止は生活の基盤をゆるがす重大な出来事であった。 明治入年にいたって、公認の豊穂講社を設立することによって、従来の師檀関係を再編成し、苦難の時代を切り抜けて現在なお、御師制度と信徒の講の制度を維持しつつ共同して神社への奉仕をつづけているのである。 御嶽神社の祭り 百水社 |
武蔵御嶽神社 東京都指定有形文化財(建造物) 御嶽神社旧本殿 所在地 青梅市御嶽山176 指定 昭和27年11月8日 武蔵御嶽神社は古くから人々に崇拝され、毎年数十万の参詣者が訪れています。社殿は古くから建立されていたと推定され、徳治2年(1307)には壬生氏によって社殿の造営が行われているのをはじめ、関東管領家、三田氏、徳川幕府によって造営が行われてきました。 現在の本殿は神明造で明治10年(1877)に造替されたもので、それまで使用されていたのがこの旧本殿の常盤堅盤杜です。この旧本殿は、都内では数少ない室町時代の様式を持つ本殿建築の一つです。社殿は一間杜流造、桧皮葺型銅板葺で、間口2.5m、奥行2.14m、基壇は壇正積です。屋根には鬼板付箱棟に千木と堅魚木を載せます。彩色は黒漆塗を基調とし、弁柄漆塗、金箔押を用いるほか、飾り金物を多用した華麗なもので、公儀普請を反映した第一級の本殿建築です。 平成22年3月建設 東京都教育委員会 社頭掲示板 |
武蔵御嶽神社 国指定天然記念物 御岳の神代ケヤキ 社伝にいう日本武尊東征の昔から生い茂っていた木とされ、古くから「神代ケヤキ」の名で親しまれている。 指定書(昭和3年2月)によれば、 御岳ノ神代欅 周囲二丈八尺高サ十丈、幹根ハ崖ノ傾斜面ニアリテ、巨大ナル瘤ヲ出シ樹枝多ク分枝シテ古木ノ雄相ヲ示セリ。樹齢凡ソ、六百年。日本武尊東征ノ折此山二登リテ甲冑ヲ蔵ス。此時己ニ此欅生ヒ茂リテアリ。以テ神代ヨリ存スト云フ。即チ神代欅ノ名アリ。御岳神社境内木トシテ保存セラレ、村民等ヨクコレヲ愛護セリ。 和名 ニレ科 ケヤキ 幹の太さ 8.2m 青梅市教育委員会 社頭掲示板 |
武蔵御嶽神社 神山霊土歌碑 御嶽神社の土(山砂)を持ち帰って、それを田畑に撒くと、土の霊力によって虫の害を防ぐことが出来るという信仰が今でも残っている。この信仰にもとづいて、碑の題を明治政府の参議、外務卿を勤めた副島種臣が書き、幕末から明治時代の国文学者、歌人で本居宣長の曾孫にあたる本居豊頴の長歌および短歌(反歌)を幕末から明治時代の政治家、書家山岡鉄舟が書いたものである。 この碑は神社の玉垣内にあるので、立ち入り禁止ですが、社務所に申し出れば見学することができます。 平成3年3月30日 青梅市教育委員会 社頭掲示板 |
大麻止乃豆乃天神社 大は於保と訓べし、麻止乃豆乃は假字也、○祭神日本武尊、大己貴命、少彦名命、(地名記)○御嶽山に在す、(同上)例祭月日、○惣國風土記七十七残欠云、大麻止乃智天神、圭田六十七束六毛田、所祭大己貴命、安閉天皇乙卯年始翼官社、花時以花祭之、新稻之時以新稻祭之、 連胤按るに、大和國十市郡天香山坐櫛真命神社、元名大麻止乃知神とある同名なれば、櫛真命を祀れるにはあらざるか、猶考ふべし、 社領 神社覈録 |
武蔵御嶽神社 むさしみたけじんじや 東京都青梅市御嶽山。旧府社。櫛真知命を主神として相殿に大己貴命・少彦名命を祀る。創祀不詳であるが、一説に当社をもって延喜式内の大麻止乃豆乃天神社に当てられ、例えば、元和8年(1622)成立の『御嶽山社頭来由記』に「因て司職国兼爰に於て本迹縁起の神道を極め、仏堂の制を換て神社の営方に改造り、行基の作の蔵王霊像を垂迹とし、坂本の地主大麻止乃豆乃天神に神秘一座を加へ、三神合一にして御嶽大権現と称し奉る。」とあるのや『新編武蔵風土記稿』に「末社地主社、本社の後にあり、『延喜式神名帳』に出せる大麻止乃豆天神にして、神明を配祀せりといへり、されば最古き神社にて、御嶽の鎮座以前よりの神なるにより、地主とは称するなるべし、されど今は末社のごとくなりたり」とみえる。中世修験道の発達にともない、金峯山蔵王権現信仰が盛んになったため、地主神の大麻止乃豆乃天神は末社とされたのであろう。東国の霊場として上下の崇敬をうけ、将軍頼経、は神領三六貫文を寄せ、延文4年(1359)足利義詮は神馬を奉り、関東管領足利基氏は社殿を修営している。永正8年(1511)三田氏宗は社殿を造営し、現在旧本殿として都重宝に指定されている。徳川家康は山上方一里の地並びに三〇石の朱印地を安堵し、慶長10年(1605)大久保石見守をして社殿を造営し、翌年社殿落成に際し太刀一口、神馬一頭を奉納している。明治2年(1869)神仏分離の際、一時大麻止乃豆乃天神社と復称したが、後に現社号に改めた。 国宝の伝畠山重忠奉納の赤糸縅甲冑一領及び文暦元年(1234)に散位大中臣国兼奉納の円文螺鈿鏡鞍一具のほか鍍金長覆輪太刀・宝寿丸太刀・慶長15年の俵形賽銭箱・懸仏。鰐口・銅鏡など多数の社宝を有し、宝物館に展示されている(現、単立神社)。例祭5月8日。 神社辞典 |
府社 御嶽神社 祭神 櫛眞知命 合殿 大己貴命 少彦名命 社傳に曰く、古老の説に安閑天皇の御宇の創立にして、崇神天皇の世勅を以て神地を定められ、後天武天皇の御字10年幣帛を進めらると、今一説に拠れば、景行天皇40年日本武尊東夷征伐の時、上州より来りて御嶽山を本陣とす、後山路を越えんとし給ふや、邪神白鹿と化し道路を塞ぎければ、尊忽ち之を斃し給ひしに、悪氣山谷に充ち群臣路に迷ひし時、忽ち白狼顯れ、前駆して西北に導きたり、尊是に於て狼に告げて、今より本陣に火災盗難を守護すべしとあり、是より当社は火難、盗難退除の守護神たりと、聖武天皇天平8年行基の東國に下るや、尊の遺跡なればとて此山に堂舎を立て蔵王権現の像を安置せり、爾来当國の震場たりしが、建久2年畠山重忠此地を領し、御嶽山に城を構へたり、後、事に依りて重忠敗死するや、社殿城廓悉く灰燼に帰せり、 文暦元年前摂政道家卿、四條帝に奏して散位大中臣國兼を以て祭祀の事を司らしむ、時に將軍頼経、神領として永銭三十六貫文の地を寄せらる、由りて國兼佛道の制を止めて神社とし、坂本なる地主神大麻止乃豆神に併せて神社となし、御嶽山大権現と號す、弘安3年北條時宗蒙古退治の祈願あり、神体を暫く鎌倉へ移せしが、平ぐに及びて元の如く之を還し奉る、延文4年3月足利義詮神馬を奉り、管領基氏より諸社堂塔修造の事あり、山内憲実崇敬篤く、永享8年神領を加増し、其他諸家の寄附所願枚挙に遑あらず、後小田原北條家関東に威を振ふ時、当社の神領及び武衛の領知を削りしかば漸く衰頽に傾けり、天正18年徳川家康入國の後武衛を許されしのみならす、山上方一里の地と旧領三十余石の寄附ありてその朱印を賜ふ、慶長10年大久保石見守に仰せて本社以下の再建あり、江城鎮護の祈願として、從来南面の社を東面に改めらる、翌年落成、太刀一振神馬一匹を奉納あり(新編武蔵風土記に拠る)新記に云「御嶽村は権現の神領にして、往古は杣郡秩父嶽とも称して、自一郡をなしたる地なりし」と、一の鳥居内に御嶽山碑あり、当山の風致景趣を写すこと詳なり、曰く。 「武州金峰山在多摩川之源、蓋藏王権現之古靈跡也、相伝、日本武尊征筏東夷凱歌西帰之日、藏兜於此嶺、武藏之名由是起 矣、里人称為武藏國號之神社、然而垂跡之始、逮不可稽焉、天正19年辛卯神祖(家康)賜命改作祠字、附以三十石、世々奉祭斯地也、峰轡雛茂形勝幽奇、三伏之候、天風凛々、冷氣過人、廠途沿層崖深渓而行、有瀑布百尋飛流於惟厳逐宝之上、泉石可以洗昏蒙、松杉可以忘身世、雲影描曳、瓢空中之素練、松韻賜鑓、奏微外之水絃、壁立之翠屏篠滑、(中略) 文化3年歳次丁卯春3月 青梅岸鳳質文卿謹撰」 明治2年6月社号を大麻止乃豆乃天神社と改め、式内社と決し、同7年2月縣社に列し、同時に現社名に改称す、蓋し神社覈録に大麻止乃天神社は御嶽山に在す、祭神日本武尊、大己貴命、少彦名命となすとありて当社を以て式内社とす、然るに神祇志料には大丸村にありとなし、其所在に異説あり。 杜殿は本殿、拝殿、社務所等を具へ、境内32426坪(官有地第一種)を有す。 明治神社誌料 |