小野神社は武蔵国府の国司が祭る武蔵総社六所宮の内、一宮とされる。国府のあった府中の地は小野郷と呼ばれ、小野氏の居住する地であったらしく、氏神として小野神社が祭らたとされている。 多摩川の氾濫により遷座を繰り返した結果二社になったとする説があり、府中市が元社で、多摩市に遷座したとする説もある。 |
小野神社 東京都指定有形文化財 (彫刻) 木造随身椅像 所在地 多摩市一ノ宮1丁目18番地8 指定 昭和50年2月6日 小野神社の起こりは古く八世紀中頃とも言われ、中世には武蔵国衙に近在する筆頭の神社、武蔵一宮であった。 武蔵一宮小野神社については現存する史料が極めて乏しい中で、昭和49年にこの随身椅像に墨書銘があることが発見された。 墨書銘によれば、この二躯のうち古い方の随身像は、元応元年(1319)因幡法橋応円・権律師丞源らにより奉納されたもので、その後、寛永5年(1628)に相州鎌倉の仏師大弐宗慶法印によって彩色などの補修が行われ、その際新しい方の像が新調されたことを伝えている。 どちらも檜材、寄木造、胡粉地に彩色が施され、頭部は挿首、玉眼。 都内では、室町時代以前の随身像は数少なく、また武蔵一宮小野神社の歴史を伝える数少ない資料の一つとして貴重な文化財である。 平成13年3月31日 設置 東京都教育委員会 社頭掲示板 |
小野神社 当社は安寧天皇18年2月初末の日御鎮座と伝えられ武蔵国開拓の祖神である天下春命(あめのしたはるのみこと)を主神として御奉祀申し上げて居る由緒ある神社である。御社名は上代此地の呼び名であった小野の郷に由来するものであるが其の霊験の灼かなる神社としてやがて朝廷の上聞にも達せられ数々の奉幣にも預かり元慶8年7月には正五位上の神階を授けられた。又、廷喜式が撰せられた折には武蔵国八座の一社として登載された。且つ国府の近在なることに由いて国司や住民の崇敬も殊の他篤く総社六所宮創建の砌には東殿第一次の席を与えられて一之宮と称された。然して当社の社伝には永承6年源頼義陸奥守に任せられて下向の途次其子義家と共に参籠され太刀一振りと詠歌一首奉納の事績が繙かれ吾妻鏡にも養和元年4月一宮は吉富井蓮光寺と併記され更に建久4年8月の刻印ある経筒の銘に一宮別当松連寺が記録されている。稍時代も下り安居院の神道集並に深大寺の僧長弁の私案抄を尋ねると当社は中世以来文珠菩薩を本地となした信仰も行われていた。斯くなる所此の近在は鎌倉末より戦国時代にかけて度々の戦乱や多摩川の氾濫があり当社にも多大の被災が及び衰微したが徳川二代将軍により造営再興された。 其の棟札に曰く 一宮正一位小野神社造営再興 慶長14年12月26日 当将軍源朝臣秀忠公 神主 新 田 大 炊 介 守 忠 太田太郎左衛門久忠 以下慶安元年御朱印壱拾五石を給わる。文政となり新四国八十八ヶ所の四十八番札所となり巡拝者も多く有りて維新に至る。明治元年神仏分離令により文珠菩薩を眞明寺に御移する。同6年12月郷社に列せられ同21年内務省より古社保存として一金百円也下附さる。同43年旧一之宮村有地弐拾町七反余当社資金に充つる為奉納さる。大正15年3月30日近隣の失火により御神体及び一部の神宝と鳥居を除き神殿等悉く類焼す。昭和2年御本殿、拝殿の再建成り社務所を附す。同35年大国魂神社5月5日の大祭に就き当社神輿の渡御は古式の変更また道路事情等にて而今中止となる。同39年旧氏子により社務所を新築奉納され随身像御修復の計画に始まって随身門の再建成り且つ御本殿、拝殿を後方期の風致林に御遷座して境内を拡大。同49年春末社の再建成り更に秋の例大祭を期して随身を同門内に御安置申し上げ依って記念の大祭を執行。茲に是を記念して此の碑文を誌す。 昭和49年9月吉日 武蔵一之宮小野神社宮司 滝 瀬 清 太 郎 公式HP |
小野神社 (一之宮村)一之宮明神社 社地、五十間四方許、社領十五石の内なり、村の内にあり、村内にて十五石の社領を御朱印附せらる、本社は三間に二間の宮造にして、四邊に瑞籬を構へ、其前少しへ立て拝殿を建つ、二間に五間半、共に西向なり、又拝殿をさること八旧間許、西に随身門あり、二間に三間半、随身の像は佛師運慶が作なりと云、前に木の鳥居たてり、郡中に一宮・二宮ありて、村名にさへ唱ふれば、此社の古きことは論をまたず、今に其社地をみるに、もと玉川の河原にして、四五百年来の開闢に過ぎざるべく見ゆれば、是へ移し祀りしは後世のこととこそおもはる、近郷百草村は山にそひたる地にして、かしこなる寺院松連寺に蔵する、建久四年の銘を刻せし経筒を見に、一宮別当松連寺としるせり、さればその時代には松連寺当社の別当職たりしこと分明なり、よりておもふに、そのかみの社地は今の地よりは西へよりて、岡山の上などにたちしなるべし、社傳に云、当社は安寧天王の御宇鎮座にして、祭神は当国の国造惠多毛比命の祖、天下春命なり、配祀五座伊弉册尊・大己貴尊・素盞嗚尊・瓊瓊杵尊・彦火々出見尊なりと、今按に是社傳疑はしく覚ゆ、其をいかにと云に、今の神職と云者後世ここに移りしものにて、古松連寺の別当職たりしことだに、いひもつたへざるほどなれば、中ころ衰廃して、社傳以下皆亡しは勿論なり、されば此祭神も後に推考して、妄に定しことはしらる、今試に論ぜんに、古は当国の地、三国のごとくにわかれて、旡邪志といひ、胸刺といひ、知々夫といひしなり、今より想像するに、山川野原等をさかひとせしさま、おのづから昔のことしゆべからざるに似たり、さて旡邪志には兄多毛比命を国造と定められ、胸刺へは伊狭知直ををかれ、知々夫へは知々夫彦命ををかれたり、このは知々夫彦命は天穂日命の子孫なれば、もとより同族にあらず、これ国造本紀・古事記等の古書によりて云所なり、今社傳に惠多毛比命の祖下春命と云こと、昔三国なりしことを考へずして、今三をあはせて、一国とせし後より、かかる両端をかねし説をなせしにて、その牽強付会しるべし、又按に諸国とも一宮・二宮・三宮など号して、国の鎮守たることは常なり、中にも東海・東山の諸国に祀れるもの多く、大巳貴・少彦名の二神なり、その故はこの二神は草昧の世、早く中国より東邊までを治め玉ひし神なればなり、その委きことは神代巻等に載たれば是には瓣ぜず、これによれば、配祀せる大巳貴神、これもとの祭神なりしならん、或云、当社は神名帳当国四十四座の内にのせざればさせる古社tごもおもはれずと、これもまた考の疎なるより、神名帳は延喜年中にえらばれしものなれば、今よりは上古のことにても、其比衰たるは元よりのせざれば、式外の神社を国史等にものせて、古社は何ほどもあるべきなり。古此国三国にわかれしとき、荒川より南にては、当社一宮にして、北は足立郡氷川社知々夫にては大宮、これ皆国の一宮なるべし、然るに大寶年中初て国守を置れ、今の府中を定められしとき、当社はおとろへたるなるべけれど、もとより国魂の社なるにより、府に近ければこれを一宮と号し、その余の二社は大宮と号して、唱をわかたれしなるべし、今府中惣社六所の祭にも、当社の神輿を出すこと、かたがたゆへあるべきことなり、後世傳を失ひて或式内小野神社ば、則当社なりなと云妄説をなすに至れり、かく古實を失ふこと惜むべし、また一宮の名ふるくものにみえしは、東鑑を始めとすべきか、治承5年4月24日の條に、武蔵国多磨郡の内吉冨并一宮蓮光寺等を以て、小山田三郎重成が、所領の内に住加云々すとあり、 神主新田主水。新田大炊助義重が後裔なりといへり、されど舊記家系は、皆丙丁の災にかかりて烏有すと云り、その詳なることは考へず。 本地堂。随身門を入て左の方にあり、二間に九尺、文殊菩薩の獅子にまたがりたる長六寸許なる木像を安置す、この本地佛あるにても昔別当寺も有し事明らけし。 末社小社二宇。本地堂の並にあり。( 新編武蔵風土記稿 |
大太鼓奉納の由来 太鼓は神社にとって其尽宝物であると共に祭典の庭に於いては神と人との和の響きとも成る、然して其が為には神社に相応しい品格が要求されよう。 幸いにも一之宮小野神社は遠く神代の武蔵国開拓の祖神たる天下春命として瀬織津比淘蜷_および稲倉魂大神を祭神として御祀り申し上げる当地における代表的な古社である。 歴史的にも天平勝宝7年には太政官符により朝庭より幣帛に預る処の武蔵国四社の内の一社とされ給い更には延喜式に登載されると共に六所宮府中大国魂神社東殿第一の座を与えられ給いて、一之宮と称されるに至られた。 小野神社では最近斯る認識の下に神域の整備を進めて来たが、其の記念事業のー環として兼て氏子一同の念願でも有った大太鼓を完成し此の吉日を以て御奉納申し上げた所以である。 昭和56年酉年9月吉日 社務所 社頭掲示板 |
一ノ宮(いちのみや) 「一ノ宮」の町名は、地内にある「小野神社」が、武蔵国六所宮(府中市内大国魂神社)の東殿第一位の座にまつられ、一之宮大明神と呼ばれたことに由来しています。 小野神社については、安寧天皇(紀元前六世紀)の勅命により創設されたと、言い伝えられています。また、「延喜式神名帳」には多磨郡八座の一つに小野神社が記されており、市内で最も古く由緒ある神社です。「日本三代実録」によると、元慶8年(884年)正五位の神位が授げられました。「吾妻鏡」には一宮と地名の記載があります。 一ノ宮の神輿は、中世以来大国魂神社の祭礼「くらやみ祭り」に参加しており、道路事情が悪化する昭和30年代前半まで続いていました。 このモニュメントは、こんな由来にちなみ「祭り」をテーマとしています。 乎成11年3月 多摩市 社頭掲示板 |
小野神社 おのじんじゃ 東京都南多摩郡多摩村。旧郷社。祭神は天乃下春命の他五柱。 安寧天皇18年2月の創建と伝え、光孝天皇元慶8年(884)正五位上に進められたと伝える。延喜の制小社に列せられた古社にあてられているが、府中市本宿(旧北多摩郡西府村本宿)にも同名の社があるため明らかでない。一宮大明神とも称され、慶安年中(1648−51)に朱印領一五石を付せられている。例祭9月9日。 神社辞典 |
小野神社 小野は乎乃と訓べし、和名鈔、(郷名部)小野、〇祭神詳ならず○府中本宿村字小野に在す、(記名記)○惣國風土記七十七残欠云、武藏國多磨郡小野神社、圭田五十六束三字田、所祭瀬織津比当轣A垂仁天皇甲午、始行祭禮、有神戸巫戸等、○拾芥抄年中行事條云、8月20日、牽武藏小野御馬、 武藏野地名考に、府中総社六所明神也、緑起云、本殿大己貴命、相殿伊弊諾尊、素戔鳴尊、瓊々杵尊、大宮売命、布留大神也、此邊小野里と云、此小野神社なるべし、伴信友云、総國風土紀、府中、或小野、或小川と云り、」式社考には府中一宮村、今一宮大明神と称す、祭神武蔵國造兄武日命祖神と云り、』地名記に、祭神下春命と云り、○伴信友云、一遍上人絵詞に、乾元元年秋の比、武州淺堤といふ所におはしけるに、又小野社神主實信(干時出家法名願阿)進歌云々、禰宜安重云々とあり、考の一助とすべしと云り、 神位 三代実録、元慶8年7月15日癸酉、授武蔵國從五位上小野神正五位上、 神社覈録 |
郷杜 小野神社 祭神 天乃下春命 当社は安寧天皇の18年2月鎮座せし由社伝に見ゆ、又一に一ノ宮明神社と称し、配祀五座伊弊冉尊、大己貴命、素戔鳴尊、瓊々杵尊、彦火々出見尊ありと、蓋し式内社に小野神社あり、神祇志料に「今小野路村の西北一宮村にあり、光孝天皇元慶8年7月癸酉從五位上小野神に正五位上を授く(三代実録)」と見え、式社考に「府中一宮君、今一宮大明神と称す、祭神武蔵国造兄武日命祖神」と云へり、新編武蔵風土記稿に、社地は元玉川の河原にして是へ移りしは後世の事と思はる、近郷百草村は山に沿ひたる地にして、彼所なる寺院松連寺に藏する、建久4年の銘を刻せし経筒を見るに、一宮別当松連寺と記せり、さればその時代には松連寺当社の別当職たりしこと分明なり、慶安年中御朱印を賜はり、村内にて十五石の社領を附せらる。享和年中に小野の古祠たる由を考証せる古碑を建つ、されど式の小野神社所在に就きては猶諸説一定せす、記して後考に備ふ、江戸名所図会に云く、 「小野神社旧址小野宮村陣街道の右にあり今総叢祠を存するのみ、社記云、当杜祭神上古は瀬織津比嶋鼾タなりしに一宮下春命を遷座なし奉り、又倉稻魂命を配祀して小野神社を三神となしまいらせし事は其時世志るべからず、最旧社なるを以て成務天皇5年乙亥の秋諸國に令して國郡に造長を置給ふ時、兄多毛比命も詔を奉り。当国の國造として此地に至り、小野縣に府を開き給ひしより後崇敬厚く、再び当社の御神を六所宮の相殿に遷しまひらせられたりとなり、(六所宮に客家三所とするものは即是なり、下春命は後に遷座の御神なれども、却て是を尊み祭しとおぼしく、六所宮にても客来三所の内下春命を第一とせり)志かありしより僅に茅祠一宇を存して其旧址を標するのみなりといへども、實に千載の古を想像つべし」 とあり、明治6年11月郷社に列す、社殿は本殿一宇にして、境内1155坪(官有地第一種)あり。 明治神社誌料 |