阿伎留神社
あきるじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】阿伎留神社 武蔵国 多摩郡鎮座

   【現社名】阿伎留神社
   【住所】東京都あきるの市五日市 1081
       北緯35度43分31秒,東経139度13分20秒
   【祭神】大物主神 (配祀)味耜高彦根神 建夷鳥命 天児屋根命
       『風土記稿』『武藏国式内四十四座神社命付』『神社覈録』味鋤高彦根命
       渡会延経『神名帳考証』素義鳴尊
       『地理志料』天櫛明玉

   【例祭】9月28日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】創立年代不詳
       元慶8年(884)7月15日従四位下『三代実録』
       建久4年(1193)7月源頼朝社領寄進
       足利尊氏も社領寄進
       天文11(1542)北條氏康社領寄進
       天正19年(1591)11月徳川家康社領寄進
       天保元年(1830)12月社殿炎上
       嘉永3年(1850)4月再建
       明治6年12月郷社
       同40年5月4日神饌幣供進神社指定

   【関係氏族】土師連
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】江戸時代は「松原大明神」と称していた
   【社殿】本殿神明造
       拝殿・幣殿・神樂殿・水舎・神輿庫・祭器庫・社務所

   【境内社】大鳥神社・菅原神社・日枝神社・稲荷神社

秋川の北岸に鎮座する。
阿伎留は「畔切」のことで、当地の開拓されはじめた頃に鎮祭せられた神社ではないかと考えられる。「畔切」とは畔を切り築いて、田を開くとの意味ではないかと思われる。
現在の宮司家は創立以来七十余代目とされ、初代神主の土師連男塩が、その氏神を祭つたのにはじまるとも考えられる。
中世以降「春日大明神」と称されてきたが、天慶3年(940)鎮守府將軍藤原秀郷(田原藤太)が大原野明神(京春日)を勧請したのに始まるとされている。


阿伎留神社

御祭神 大物主神(おおものぬしのかみ)
味耜高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)
建夷鳥神(たけひなとりのかみ)
天児屋根命(あめのこやねのみこと
社号
正式には「延喜式神名帳」にのせられているとおり阿伎留神社と書きます。
三代実録や大永元年銘のある版木には畔切と書かれてありまして、別に建武5年銘の懸仏には秋留と刻しています。いずれも「あきる」とよみます。
また鎮座地により松原大明神と称し、江戸中期は春日大明神の神号を用いています。通称は松原さまといわれています。
由緒
 創立起源は未詳。延喜式神名帳には武蔵国多摩郡八座の筆頭にあげられ、武蔵国内著名の古社です。また、三代実録の元慶8年秋7月15日に正五位下勲六等畔切神の従四下を授けた旨が記され、以後時代につれて、定時の奉幣加階が行われました。
 鎌倉時代以後、武将の崇敬も篤く、源頼朝、足利尊氏、後北条氏からそれぞれ神領が寄進されました。また、徳川家康は、江戸入府の翌年大正19年11月に、武蔵国多西郡秋留郷松原の内で十石を寄せ、それ以後代々の将軍は、家康の先例に従って、同じ土地を寄進し、その朱印状12通が遺されています。
 江戸時代当社神主は触頭(ふれがしら)をつとめ、触下(ふれした)は秋川流域から小河内にいたり28人でした。6月、9月の末日を年中二度の大祭と称し、これらの神主が二班に分かれ、阿伎留社頭で武運長久、天下泰平の祈祷が行われました。  明治以後神社制度の確立に伴い、いちはやく明治6年12月郷社に列格し、のち明治40年5月神簾幣常料供進(しんせんへいはくりょうきょうしん)神社に指定されました。
 戦後昭和29年に宗教法人となりました。
 社殿は天保元年の五日市大火により、未社、神主宅に至るまで一切が烏有に帰しました。
そこで幕府に請うて、江戸府中および武蔵国中の勧化許可を受け、資金資材の準備を進めましたが、おりから幕末多端の時で社殿造営にまで至らず、永らく仮殿のまま過ごしましたが、明治21年11月、ようやく現在の本殿、拝殿が完成しました。以後百年にわたって営々努力の結果、大鳥居、神楽殿、神輿殿、社務所、玉垣一等が建造され、社頭の整備が進みました。ただ惜しむらくは、昭和41年9月の台風25号により、杉、槍など大木が百本以上倒れ、昼なお暗かった境内林が半分に減ってしまったことです。



阿伎留神社

鎮座地 西多摩郡五日市町五日市1081番地
御祭神 大物主神(相殿)味耜紹高彦根命 建夷鳥命 天児屋根命
由緒 創立起源不詳。社名は阿伎留、阿伎瑠、秋留、畔切と書き、いずれもあきると読む。延喜式内社。
『三代実録』の光孝天皇元慶8年(884)秋7月15日の条に、武蔵国正五位上勲六等畔切神に従四位上を授けたとある。武将の崇敬も厚く、源頼朝、足利尊氏、後北条氏もそれぞれ社領を寄進し、徳川家康は天正19年(1591)11月に秋留郷松原の内で一〇石を寄進し、以後代々その先例に従った。明治6年12月郷社に列格。同40年5月神遷幣帛供進神社に指定された。現社殿は明治21年11月の完成。〈俗社号〉松原さま
例祭日9月28・29・30日氏子数900戸
社宝類 年中十二祭絵巻(二巻、町文化財)/武州南一撰文書(六通、町文化財)/本体懸仏(建武5年(1338)銘、町文化財)/徳川家朱印状(原本12通)/神璽古版木(大永元年(1521)銘)
建造物の種類・型式 本殿(神明造)/拝殿(入母屋造)/神楽殿/社務所/神輿庫/手水舎/祭器庫/鳥居(鉄筋コンクリート神明造)/社号標/狛犬/石燈籠/忠魂碑
境内・外社 若電神社(加茂別電神<国史現在社>)/伊多弖神社(五十猛命<国史現在社>)/菅原神社(菅原道真)/稲荷神社(稲倉魂神、保食姫神)/大鳥神社(思兼神、大名持神、事代主神。天保2年(1831)再建)/市神社(旧五日市宿の市神)、一(境外社)琴平神社(大物主神、崇徳天皇)五日市入野峰山頂にあり、江戸時代より栄えた古社。明治以降は特に養蚕安全の神として近郷に崇敬が多く1月9日の山頂の祭は賑やかである。境内地100坪。
境内面積9560.1u(2896坪)
法人設立 昭和29年4月30日
交通 五日市線武蔵五日市駅下車徒歩12分
宮司及び職員 宮司 阿留多伎弘 禰宜阿留多伎潔
住所〒190-Ol西多摩郡五日市町五日市1082番地/電話1425-96-0560

由緒書



阿伎留神社

延喜式内社として多摩八座の筆頭に挙げられる古社。江戸時代は御朱印一〇石を寄せられ、当時より行なわれた九月末日の祭礼は今日も盛大に挙行されている。
町指定文化財 年中十二祭神事絵巻
狩野渓運久信筆の美しく彩色された絵巻物で、江戸末期の作。当社で古くから行なわれていた月毎の祭事が描かれており、当時の年中神事がうかがえる。
写真は四月の「神御衣神事」。神衣を調製している図。
町指定文化財 武州南一揆文書六通
武州南一揆は南武蔵の在郷武士団で、その有力集団が秋川流域にあり、一五世紀を中心に活躍した。当社には六通の関係文書があり、中でも、応永24年(1417)関東公方足利持氏の下した恩賞状は資料価値が高い。
町指定文化財 懸仏台盤
この懸仏は中央の仏体が失われ、台座(径30cm)のみである。裏面に陰刻された「武蔵国秋留神社小塩村松原大明神之御本体、建武5年(1338)2月1日沙弥本願敬白」の文字は地域の希少な中世資料である。
昭和44年7月指定
五日市町教育委員会

社頭掲示板



阿伎留神社

延喜式内社として多摩八座の筆頭に挙げられる古社。江戸時代は御朱印一〇石を寄せられ、当時より行われた9月末日の祭礼は今日も盛大に挙行されている。
「水無月祓(みなづきはらい)」の図
 市指定文化財
 年中十二祭神事絵巻
狩野谿運(けいうん)久信筆の美しく彩色された絵巻物で、江戸末期の作。当社で古くから行なわれていた月毎の祭事が描かれており、当時の年中神事がうかがえる。
写真は6月30日に行われる「水無月祓(みなづきはらい)」の図。
 市指定文化財
 武州南一揆文書 六通
武州南一揆は南武蔵の在郷武士団で、その有力集団が秋川流域にあり、一五世紀を中心に活躍した。当社には六通の関係文書があり、中でも、應永24年(1417)関東公方足利持氏の下した恩賞状は資料価値が高い。
 市指定文化財
 懸仏(かけぼとけ)台盤
この懸仏は中央の仏体が失なわれ、台盤(径30cm)のみである。裏面に陰刻された「武蔵国秋留神社小塩村松原大明神之御本躰、建武5年(1338)2月1日沙弥本願敬白」の文字は地域の希少な中世資料である。
  昭和44年7月指定
  あきる野市教育委員会

社頭掲示板



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