古くは杉山大明神(杉山神社)と称され、大正9年に、社名を鶴見神社と改めた。 昭和37年、境内の古木が倒れた際にその根元から弥生時代後期の土器や古墳時代の土師器、鎌倉時代に至る祭祀遺跡が発見された。これにより、創建伝承以前から祭祀の場となっていたことが確認された。 |
鶴見神社 当社は天保の始め国学者黒川春村の編である「杉山神社神賀歌考証」に詳述しているが、延喜式内社である事は有力である。その創建は推古天皇の御代に当り剣を以て神体としている。昌泰年間(898〜900)社殿の造営あり、(天台宗西照寺が別当であった。元来当神社の主神は五十猛命であるが、その父神である素盞鳴命を配し合祀したので、これより牛頭天王と奉称した。元亀之年兵乱の為社殿災上し古文書類多く烏有に帰した。宝暦3年(1753)正月16日黒川四郎左衛門新殿を造営、その後嘉永6年6月7日佐久間権蔵社殿を改築、明治3年4月牛頭天王は八坂大神に、杉山大明神は杉山明神と改称し、同6年12月村社に列せられた。同33年1月11日焼失、大正4年11月9日御大典記念として社殿を再建、遷宮式を執行した。同8年7月11日神供幣烏料供進社に指定され、同9年2月10日鶴見神社と改称された。神社庁指定神社。。 神奈川県神社誌 |
鶴見神社 鶴見神社は、往古は杉山大明神と称し境内地約五千坪を有していました。 その創建は、推古天皇の御代(約1400年前)と伝えられています。大正9年に鶴見神社と改称しました。 『続日本後紀』承和5年(838)2月の項に、「武蔵国都筑郡の杉山神社が霊験をもって官弊に之を預からしむ」とあり、この有力神社として江戸時代の国学者黒川春村は、鶴見神社に伝わる田遊びに関する『杉山明神神寿歌釈』を著しています。 昭和37年、境内より弥生式後期から古墳時代の土師器を中心として鎌倉期に及ぶ多数の祭祀遺物(祭りに使用された道具)が発見され、推古朝以前より神聖な場所として、すでに祭祀が行われていたことともに、横浜・川崎間最古の社であることが立証されました 鎌倉将軍源頼経が仁治2年(1241)に杉山大明神に参詣し、「吾れの如く大きくなれ」と奉納したと伝えられる欅がありました。 残念ながら昭和37年に枯死しましたが、その際、根元土中より多数の祭祀遺物(祭りに使用された道具)が発掘されました。 主な出来事 ──旧石器時代(BC33000) 最後の氷河期で鶴見台地や神社付近は約200mの丘となり、東に古東京川が流れ、姶良(あいら)火山灰が降る ──縄文時代(BC10000) 【早期】温暖化が始まり、東京湾に海水が流入し、横須賀の夏島貝塚、横浜に野島貝塚を作る 【後期】海退が始まり、神社付近も鶴見川の川水が運ぶ砂が堆積して陸化して、海岸近くにヒト(人)が来て土器を残した ──弥生時代 関東に稲作が伝わり、鶴見川中流に大きなムラ(村)が作られ、神社付近も耕作が可能になった ──古墳時代(300年代) 神社西側付近に稲作りのムラが作られた。ムラ人たちは、たくさんの土器を作り、使って、前面の海でとった貝を食べて貝塚を残した ──平安時代(800年代) 『続日本後紀』承和 5年2月の項に「武蔵国都筑郡杉山の社、霊験あるを以て官幣を之に預らしむ」とあり、杉山社が官弊社となったことが記されているこの頃、神社に伝わる「田祭り」が始ったと推定される(板橋区の北野神社・諏訪社の伝えから) ──鎌倉時代(1200年代) 鎌倉4代将軍頼経が仁治2年(1241)に杉山大明神(現在の鶴見神社)に参詣し、「吾れの如く大きくなれ」と4本の欅を奉納植樹したと伝えられている ──建武元年(1334) 「武蔵国鶴見寺尾郷絵図」(松蔭寺古図)が作られる。江戸時代以前の関東地方の地形や荘園範囲を描いた貴重な絵図/県立金沢文庫収蔵/国の重要文化財 ──江戸時代(1600年代〜) 徳川家康が江戸に幕府を開き、東海道を整備。神社境内に浅間社・牛頭天王社など、道向かいに信楽茶屋があり、街道は江戸時代を通じてにぎわった ──江戸時代(1650〜1670) この頃、小倉の天王社の大神輿が鶴見川天王河岸に流れ着き、鶴見村の百姓が茅を刈る長柄の鎌で引き上げて、神社に奉納したと伝えられている。(長柄の神輿) ──文化6年(1809) 江戸の国学者黒川春村、鶴見村の佐久間家・平野家所持の「神寿歌」の異同を正し、「杉山神社神寿歌釈」を記述。「祭礼の古風なるその唱歌はた古雅なるを思えば必旧社にておはします」と杉山明神を延喜式の古社として推す ──文化文政期年(1804-1829) 『新編武蔵風土記稿』に「この社にて毎年正月十六日百姓等が歌い踊る明神の田祭り歌というものあり。殊に古風なるものにて関東の守護三島大明神といえることあり。これらのことにても北條の頃のものたることしるべし」と記されている ──嘉永 6年(1853) 鶴見村名主佐久間権蔵が社殿改築 ──安政 6年(1859) 横浜開港 ──文久 2年(1862) 生麦事件起こる ──明治 1年(1868) 明治維新、東京遷都。神仏分離令・廃仏毀釈 ──明治 4年(1871) この年を最後に平安時代から伝わる田祭りが県の令により廃絶となる ──明治 5年(1872) 新橋・横浜間鉄道開通・鶴見駅開業/境内地西半分が鉄道用地として接収される ──明治 6年(1873) 12月 官命により鶴見村村社に列せられる ──明治33年(1900) 1/11 汽車の火の粉で社殿焼失 寺谷熊野神社を筆頭に21の末社は一村一社の令で、寺谷熊野神社を残して廃社となる ──明治44年(1911) 3/31 鶴見の大火/汽車の火の粉で200余戸焼失 ──大正 4年(1915) 11/9 社殿再建遷宮式(大正天皇ご大典記念造営) ──大正 9年(1920) 杉山神社を鶴見神社と改称 ──昭和37年(1962) 境内の欅の巨木が枯死、根元から祭祀遺物と生活用具(ツボ・カメ)が出土。当時のムラと判明 ──昭和 61年(1986) 明治4年廃絶の田祭りを115年ぶりに再興、鶴見田祭り保存会設立 ──平成20年(2008) 神社境内本殿前から東側に貝層が発見され、市埋蔵文化財センターが発掘した結果、弥生時代から古墳時代初期と判明。横浜市の史跡に指定される ──平成29年(2017) 2月 田祭りの保存継承のため演者の神寿歌伝習により、金子元重(鶴見神社宮司)が平成28年度(公財)全国税理士共栄会文化財団地域文化賞(伝統芸能分野)受賞 4/29 鶴見区制90周年・田祭り再興30周年記念鶴見の田祭りを盛大に斎行 10月 鶴見田祭り保存会が(公財)ポーラ伝統文化振興財団第37回伝統文化ポーラ賞地域賞受賞 11月 鶴見の田祭りが横浜市地域無形民俗文化財に登録される 公式HP |
清明宮鎮座の由来 清明宮は昭和45年11月25日に 市ヶ谷駐屯地で自決した三島由紀夫・森田必勝 両大人命をお祀りして、 40年祭にあたる平成22年11月25日に建立されました。 若かりし頃の三島氏は鶴見区内にあった バー「仔馬」の常連で、 経営者の大塚孝治氏と大変懇意にしており、 大塚氏のご子息の名付け親になったのも 三島氏だったそうで、 鶴見とは浅からぬ縁がありました。 このような縁で、 三島・森田両烈士の三十年祭(平成2年)から 三島森田事務所主催による慰霊祭を毎年、 鶴見神社で斎行しております。 その後、有志によって 三島・森田両烈士をお祀りする社が建立されました。 社頭掲示板 |
寺尾稲荷道道標 横浜市地域有形民俗文化財 寺尾稲荷道道標 平成18年11月1日登録 所有者 宗教法人鶴見神社 時代 文政11年(1828) 寺尾稲荷道道標は、旧東海道の鶴見橋(現鶴見川橋)付近から寺尾・小杉方面への分岐点にあった三家稲荷に建てられていたもので、一村一社の神社合祀令によって、大正年間に三家稲荷が鶴見神社境内に移された時に、移されたと思われます。昭和30年代前半頃に、鶴見神社境内に移されていた三家稲荷の烏居前の土留め作業を行なった際、道標が埋没しているのが発見されました。 正面には「馬上安全寺尾稲荷道」 右側面には「是より廿五丁」 左側面には「宝永二乙酉二月初午 寛延三庚午十月再建 文政十一戌子四月再建之」 とあり、二度建替えられ、この道標が三代目であり、当時の寺尾稲荷に対する信仰の篤さをうかがい知ることができます。 寺尾稲荷は、寺尾城社の西山麓に祀られ、現在は地名が馬場となったことから馬場稲荷と呼ばれていますが、古くは寺尾稲荷と呼ばれていました。江戸時代には馬術上達がかなえられる稲荷として知られていました。 平成19年3月 横浜市教育委員会 社頭掲示板 |
神輿の伝説 今より三百年程の昔、鶴見川の川上より壹基の神輿が天王河岸(現在の潮見橋付近)に流れつき、鶴見村の百姓が長柄の鎌で、神輿を引き上げ当社に納めたと伝えられるまた、鶴見川の上流、川崎市小倉に同一の言い伝えあり。 それは、小倉の当時の鎮守天王社(現在、八幡神社に合祀)の祭礼の折、村人が鶴見川で神興を洗う時、神が流れだし村中総出でひきとめたがそのまゝ鶴見村の方へ流れ去ったと伝えられる。 以来、小倉では鶴見神社の祭礼には、かげ祭りを行なうと、古老の言い伝えがある。 昭和41年8月 鶴見神社 宮司 金子勢次識 社頭掲示板 |
鶴見の田祭り 横浜市地域無形民俗文化財 鶴見の田祭り 平成29年11月2日 登録 行事の日 4月29日(毎年) 行事の場所 横浜市鵡見区鶴見中央一丁日十四番一号(鶴見神社内) 保存団体 鶴見田祭り保存会 田祭りは、年のはじめに稲作の過程を模擬的に演じ、その年の豊作を祈願する予祝行事です。鶴見の田祭りは、毎年4月29日に鶴見神社(旧杉山大明神)境内で、「神寿歌」に合わせて、鍬入れから苗代の田打ち、種まき、烏追い、代掻き、苗取り、田植え、稲刈りまでの一連の農作業と豊年の祝いを、作大将以下十二人の演者や牛役の男児、早乙女役の女児達によって演じられています。『新編武蔵風土記稿」に「毎年正月16日の夕方、百姓たちが歌いおどる明神の田祭りうたというものがある」と書かれています。この「田祭りうた」が「神寿歌」のことで、鎌倉時代からこの地に受け継がれてきました。 明治以降途絶えていましたが、昭和62年に、再興され、現在は「鶴見の田祭り」として、地域に根付いています。 平成30年3月 横浜市教育委員会 社頭掲示板 |