都筑インター東に鎮座する。 この地の小字に「杉山」があり、居住千年以上に及ぶとの口碑を持つ森家と言う旧家のみあって昔から他に一軒もなかった、森家の背後の丘陵に浅間塚なる円墳がある。 |
由緒 鎮座地 横浜市港北区新吉田町4509 祭神 五十猛命、配祀 権五郎景政、比野聖廟、素盞嗚命 例祭日 10月9日 社殿 権現造、茅葺、24坪 境内 900坪 由緒沿革 武蔵式社記に、「都筑郡吉田と云うに杉山という小地名ありて其の処に座す社実蹟なり」 とあり、新編武蔵風土記稿には、「除地二段五畝、村の北方にあり、石階数級を登りて社前に鳥居を立つ、本社二間に二間半、拝殿三間に二間、南向、神体不動、村内正福寺の持」と記している。明治6年に郷社に列格、同41年11月、村内の無格社三社を合祀した。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
杉山神社 杉山は須岐夜萬と訓べし〇祭神五十猛命、(地名記)○在所分明ならず、(地名記云、吉田村字杉山、式社考云、小机郷小机村、参考云、茅ケ崎村、孰れかしらず、) 神位 官社 続日本後紀、承和5年2月庚戌、武蔵國都筑郡杉山神殿預乏官幣以霊験也、同15年5月庚辰、奉授武蔵國無位杉山名神從五位下 神社覈録 |
杉山神社 鎮座地 横浜市港北区新吉田町四五〇九 祭神 五十猛命、配祀 権五郎景政、比野聖廟、素盞嗚命 例祭日 10月9日 社殿 権現造、茅葺、二十四坪 境内 九〇〇坪 由緒沿革 武蔵式社記に、「都筑郡吉田と云うに杉山という小地名ありて其の処に座す社実蹟なり」 とあり、新編武蔵風土記稿には、「除地二段五畝、村の北方にあり、石階数級を登りて社前に鳥居を立つ、本社二間に二間半、拝殿三間に二間、南向、神体不動、村内正福寺の持」と記している。明治6年に郷社に列格、同41年11月、村内の無格社三社を合祀した。 神奈川県神社庁 |
武蔵国都筑郡郷社 杉山神社の由緒 祭神 主座 五十猛命 合祀 鎌倉権五郎景政・比野聖廟・素盞嗚尊 例祭日 10月9日 当宮の創建は不明であるが式内社(平成時代に制定された延喜式神明帳にある神社)として既にその名を記された「武蔵国六之宮杉山神社」に比定される神社の一つである。 そもそも杉山神社は安房の忌部氏によって武蔵国南部、都筑郡に祭祀され、同郡の鶴見川とその支流の早淵川流域の開拓によって広く分祀されていったとされる。 当宮は明治に至り、近在の御霊神社他を合祀し、権五郎景政・比野聖廟・素盞嗚尊を合祀し現在も本殿内に共に祀る。 社殿は権現造りであるが、本殿は三座あり、主座は五十猛命・次座は御霊大神権五郎景政である。三座目は比野聖廟・素盞嗚尊と思われるがその由緒などは不明である。 神社南側は旧字名を杉山と称した事、武蔵国総社大國魂神社の社家猿渡氏の出自がこの吉田村界隈と推測される事、地勢上などから式内社と有力視されて明治六年に都筑郡の郷社に定められ広く崇敬された。 現在の氏子区域は当地の旧字の北川(早渕)・御霊・稲坂・中里となっている。 社頭掲示板 |
郷社 杉山神社 祭神 五十猛命 創立年代詳ならず、相模國都筑郡杉山神社は、國史現在社にして式内たり、然るに都筑郡中杉山神社数社あり、今現に郷社たるもの三、而してその何れが国史現在社にして式内たる杉山神社なるかを詳にせず、式社記は当社を以て、彼の式内の杉山神社の実跡とす、然れども其徽証甚だ薄弱なるが如し、武藏総社記に説あり、 「吉田村なるも、山上に社ありて、石階十五間ばかりもありぬべし、かの茅が崎なると同じほどなる社にして、前の方は水田にて、南の方なる山間に、杉山と云ふ地名ありと里人いへり、是式社記に云ふものなるべし、別当の坊は正福寺といふ、主僧は外に出て、十二三の小僧ひとり、留守の戸を守れるに、何くれと聞きたれど、ただ杉山明神の實跡といふばかりにて、証とすべき事無し、本地といふは此処も不動なりき、すべて無徽にして決しがたし、武蔵演路、式社記などには、何を証として俄に定めたるにか、おぼつかなし、」 御神体は、不動、木の坐像にて、長八寸ばかり、彩色を加へたり、さまで古きものとは見えずと、新編武蔵風土記稿に見ゆ、明治6年郷社に列す、社殿は、本殿、拝殿を具備し、境内395坪(官有地第一種)あり。 明治神社誌料 |