杉山神社
すぎやまじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】杉山神社 武蔵国 都筑郡鎮座
          (旧地@)杉山神社【旧地@】
          (旧地)龍福寺 杉山神社【旧地】

   【現社名】杉山神社
   【住所】神奈川県横浜市都筑区中川6−1−1
       北緯35度33分16秒,東経139度34分34秒
   【祭神】日本武命
   【例祭】10月15日 例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】承和5年(838)2月官幣
       承和15年(848)5月22日従五位下

   【関係氏族】
   【鎮座地】元々は大棚477番地の杉の森(龍福寺付近)に鎮座
        明治45年1月中川町1084番地(大塚・歴博付近)に鎮座
        昭和58年11月30日同町757番の元吾妻社の跡地へ遷
        平成7年10月15日現在地へ遷

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【公式HP】 杉山神社
   【社殿】本殿平屋造
       拝殿・社務所

   【境内社】
   【社地変遷図】 社地変遷図

旧大棚村に鎮座していたことから、大棚杉山神社とも呼称される。
横浜市営地下鉄センター北西口正面にある。
中川町1084番地に鎮座していた当社は再開発事業の為に移転している。中川町757番地の元吾妻社跡地に昭和58年11月30日に仮社殿を建立し移転。平成4年4月に中川町1194番地にさらに移転が計画され、平成7年10月15日に社殿・鳥居・社務所・植栽等が整えられ、現在地に鎮座となる。


杉山神社

宗教法人 杉山神社移築記念碑
横浜市は昭和40年2月、六大事業の一つとして「横浜国際港都建設事業・横浜北部新都市土地区画整理事業」を発表、同49年建設大臣の事業認可。横浜市高速3号線の免許取得、着工に至る。
杉山神社は中川町1084番地から同町757番の元吾妻社の跡地へ58年11月30日仮社殿を設けここに遷座し、元旦祭・大祭は此処で執行された。換地も間近く建設委員会の結成に着手、資金計画に入る。
移設補償金と寄付金を念頭においたが、神社地の一部80坪を売却し基金とすることに決し、その承認を神社本庁に申請し、同時に社殿・社務所・鳥居等の新築・改築・移築をも承認された。
平成4年4月、中川町1194番地に仮換地指定された社殿は木造とし長野県諏訪市大字四賀、株式会社石田組と、同5年3月工事契約を結び6年9月竣工し、同10月13日祭神勧請と配神遷座式を行い社務所・鳥居・付属建物・植栽等の完成を待ち平成7年10月15日遷宮式典と落慶祝賀に及ぶ。
御霊璽については杉山神社と最も由緒深いとされている和歌山県の伊太邪曽神社へ赴き親しく御分霊を受け五十猛命の霊璽を拝受し御主神日本武尊と並び崇め祭る。

社頭石碑



杉山神社碑銘

武蔵国都筑郡大棚郷杉山祠祭日本部尊延喜式所謂四十四座之一而是為杉山明神本祠蓋大棚之為郷和名称載都筑七郷内綴喜店屋郷後為大店又称大棚郷実為式兵部省所謂武蔵国四駅之一郷中有古道蹠今尚寂然可尋有地称宿根入者武蔵演路以為駅址又荒原往往出有文古瓦郷人以為古駅之徴続日本後記曰承和三年二月授武蔵国無位杉山名神従五位下蓋謂此祠也又聞昔者祠在後山一旦罹災因従之於山下天正十九年所製□籍載祭田四□五拾六歩至文禄三年為 官所収遂□祭田而方今因循伝訛以郷為村祠亦殆廃天保五年別当龍福寺住僧長伝深慨其祠之衰替之□其所伝之神璽以請白川神祇官総司乃賜以杉山神社四字題額実係神祇伯雅寿王所書掲之於祠前焉間者村民恵吉□相謀将立碑書其顛末以伝無窮而請文於余乃記其所説又係以銘曰
白鳥之神英武之質西伐東討偉功無匹杉山古祠久就埋没貞□載文神威斯述
嘉永五年歳次壬子嘉平月 林司成家塾都講河田興撰并書

社頭石碑



大棚・中川 杉山神社

「大棚・中川 杉山神社」は、平成6年(1994年)に現在の中川6丁目1番地、センター北駅西側に建立されました。港北ニュータウンの中心部にあり、新しい社殿と境内を持つため、歴史の浅い神社と思われる方も多いのですが、実は平安時代から続くとされる神社なのです。
杉山神社の名前が最初に日本の歴史書に現れるのは平安時代初期に編纂された『続日本後記』 杉山神社は由緒正しい式内社のひとつとされる神社です。

公式HP



郷社 杉山神社

祭神 日本武尊
創立年月及由緒詳ならす、明治6年郷社に列せられ、社殿一宇、境内468坪(宵有地第一種)あり、彼の式社たる杉山神社を当社に擬せるものありといへども、証拠しがたし、武蔵総社誌に云く、
「又近き年、かの大棚村に座す社を實跡とする説も出来たりと聞て、土人の伝説を問ひ試るに、微証に備ふべきものとてはあること無し、然るに去る嘉永5年、村民栗原恵吉、社前に碑を立つ、其文に、「武藏国都筑郡大棚郷杉山祠、祭日本武尊、延喜式所謂四十四座之一、而是爲杉山明神本祠、蓋大棚之爲郷、和名抄載都筑七郷内、綴喜店屋郷、後為大店、又称大棚郷、實爲式兵郁省所謂武蔵国四駅之二郷中有古道跡、今尚宛然可尋、有地称宿根入者、武蔵演路以為駅趾、又荒原往々出有文古瓦、郷人以爲古駅之微、続日本後紀曰、承和5年2月、授武蔵國無位杉山名神従五位下、蓋謂此祠也、又聞、昔者祠在後山、一旦罹災因徒之於山下、天正19年所製税籍、載祭田四段五十六歩、至文禄3年為官所収、遂失祭田、而方今因循伝訛、以郷為村、祠亦殆廃、天保5年、別当龍福寺住僧長伝、深慨其祠之衰替、乃具其所伝之神璽、以称白川神祇官総司、乃賜以杉山神社四字題額、實係神祇伯雅壽王所書、掲之於祠前焉、間者村民恵吉等相謀、将立碑書顛未以傅無窮、而請文於余、乃記其所説、又係以銘曰、白鳥之神、英武之質、西伐東討、偉功無匹、杉山古祠、久就埋没、貞砥載文、神威斯述、嘉永5年歳次壬子嘉平月、林司成家塾都講河田興撰并書」と記せり、鹿漏なる事多し此御社に日本武尊を祀れりと云ふも無稽の説なるを、聞くがまゝに諾なひて、白鳥之神云々と事もなげに又式社記に、祭神五十猛命と説るも、例の信じがたくなむ。」

明治神社誌料



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