横浜商科大学南に鎮座する。 『新編武蔵国風土記稿』所載の杉山神社は72社(都筑24社、橘樹37社、久良岐5社、南多摩6社、)あるが、その後廃社したり、合祀されたりして、現在は42社となつた。これらはいづれも鶴見川の本流ならびに支流の早淵川や恩田川の近くに鎮座している。 大國魂神社の「くらやみ祭」に参列しており、武州六大明神の1つに数えられる。 延宝年間(1673年 - 1681年)に現地へ遷座したものと考えられており、これ以前には西北方300mの山麓に鎮座していた。 |
由緒 杉山神社の史籍に於ける初見は、延喜式巻九神祇九に、「都筑郡一座杉山名神」と見えているのであって、之に依って都筑郡唯一の式内社であること明である。 而てこの神社は地方民のみならず一般の人々の信仰の対象となったものの如くで、続日本後記巻七承和5年2月庚戌ノ条に、「武蔵国都筑郡杉山名神預之官幣以霊験也」と見えている。このように霊験あらたかなことによってか、同書巻十八喜祥元年5月庚辰の条に、「奉授武蔵国無位杉山名神従五位下」と記され、時の朝廷より贈位の恩命にさえ接している。 然しこの記事を最後として史籍には何等見えていないのであるが、杉山神社に残る古き棟札及び別当極楽寺の墓碑の年号により推して、延宝年間に現在の場所に移され武蔵風土記に記された如く、慶安2年8月には徳川幕府より朱印状を下賜されている。以上の事実によって杉山神社こそ式内社の由緒深きもので、後世、明治43年、無格社神明社外四社合併。大正9年9月、神奈川県告示第三六二号を以て供進神社に指定せられたり。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
杉山神社 延喜式内社 武蔵総社六之宮 杉山神社 大国魂神社宮司 猿渡盛文拝書 1.祭神 五十猛命 配祀大日霊貴命、素盞鳴尊、太田命 由緒 当神社は武蔵国の総社大国魂神社の六ノ宮である。続日本後紀承和5年(836)2月庚戌の条に武蔵国都筑郡杉山神社預之官幣以霊験也、とあるさらに同書承和15年(848)5月庚辰の条にも奉授武蔵国无位杉山名神従五位下とある。 六所宮武蔵国の総社、大国魂神社の成立は、人皇12代景行天皇41年、都筑郡杉山神社は六の宮として西殿に祭られた。 「武蔵総社誌」上巻に六所宮東西の御殿に鎮座。六所大神等は東御殿に一の宮小野天神、二の宮小河大神、三の神氷川大神、以上三所鎮座す。西御殿に四の宮秩父大神、五の宮金佐奈ノ大神、六の宮杉山大神、以上三所鎮座す。件の六社を総称して六所宮と称す。 この六の宮に該当する神社が西八朔鎮座の杉山神社である。「風土記稿」に「慶安年中社領の御朱印を賜う、其の文左にのす。」 武蔵国都筑郡西八朔村極楽寺杉山明神社領、同村之内五石六斗事、任先規寄付之乞全可収納、並境内山林竹木諸役等免除如有来永不可有違者也、慶安2年(1649)8月24日 御朱印」以上の事実によって当神社こそ式内社の由緒深きものである。 社格 明治6年12月被列郷社との辞令神奈川県庁より御下付あり。 大正9年9月10被神奈川県告示第362号を以て神饌幣帛料供進すべき旨知事より指定あり。 昭和28年8月1日神奈川県指令第3990号を以て宗教法人杉山神社として同県知事より認証された。 社殿 境内地 昭和57年11月3日改築遷宮祭執行。境内地1463坪 昭和57年11月吉日 杉山神社宮司 志村文雄謹書 社頭掲示板 |
杉山神社 延喜式に「都筑郡一座杉山名神」とある。都筑郡内唯一の式内社であり、武蔵国六の宮である。 棟札の資料により、延宝年間に現在の地に遷ったと見られる。明治43年無格社神明社他4社を合祀。 大正9年、郷社の社格を得た。西八朔町産土神として氏子の篤い崇敬を受ける他、武蔵国一円よりの参拝も多い。 神奈川県神社庁 |
延喜式内社武蔵総社六之宮杉山神社 一、祭神 五十猛命、配祀 大日霊命 素盞嗚命 太田命 一、由緒 当神社は武蔵国の総社、大国魂神社の六宮である。続日本後紀承和5年(838)2月庚戌の条に武蔵国都筑郡杉山神社預之官幣以霊験也。とあるさらに同書承和15年(848)5月庚辰の条にも奉授武蔵国无位杉山名神従五位下とある 六所宮武蔵国の総社、大国魂神社の成立は人皇十二代景行天皇41年、都筑郡杉山神社は六の宮として西殿に祭られた。 「武蔵総社誌」上巻に六所宮東西の御殿に鎮座す六所大神等は東御殿に一の宮小野大神、二の宮小河大神、三の宮氷川大神、以上三所鎮座す。西御殿に四の宮秩父大神、五の宮金佐奈ノ大神、六の宮杉山ノ大神以上三所鎮座す。件の六所を総称して六所宮と称す。この六ノ宮に該当する神社が西八朔鎮座の杉山神社である。「風土記稿」に「慶安年中社領の御朱印を賜う。其の文左にのす」武蔵国都筑郡西八朔村、極楽寺杉山明神社領、同村之内、五石六斗事、任先規寄附之訖全可収納、並境内山林竹木諸役等、免除如有来永不可有相違者也。慶安2年(1649)8月24日、御朱印。以上の事実によって当神社こそ式内社の由緒深きものである。 一、社格 明治6年12月被列郷社との辞令神奈川県庁より御下附あり。 大正9年9月10日神奈川県告示第三六二号を以て神饌幣帛料供進すべき旨同県知事より指定あり。 昭和28年8月1日神奈川県指令第三九九〇号を以って宗教法人杉山神社として同県知事より認証された。 一、社殿・境内地 昭和57年11月3日改築遷宮祭執行。境内地千四百六十三坪 社頭石碑 |
杉山神社と府中六所宮(大国魂神社) 大國塊神社と杉山神社は当初から深い関係にあり、大國魂神社に祀られている八神の一つ六之宮の杉山大神は、西八朔の杉山神社の祭神だとされています。 これは江戸時代末の六所宮の神主だった猿渡盛章の調査によって定められ、以来西八朔の杉山神社と大國魂神社との関係は今に続いています。 5月5日の大國魂神社例大祭「くらやみ祭り」の祭には杉山神社宮司と氏子会の代表が神事に参列し10月1日の杉山神社の例祭には府中の大國魂神社から神職と六之宮や五六宮太鼓を受け持つ町内の人たちが参列します。 古くは杉山神社の神輿が府中六所宮まで担がれていったという伝承もあります。 武蔵国にあっては格段の由緒を持つ杉山神社と府中六所宮とは、地域の人たちの深い繋がりによって伝統がささえられているのです。 府中郷土の森博物館 学芸係長 小野一之氏謹著 パンフレット |
杉山神社 杉山は須岐夜萬と訓べし〇祭神五十猛命、(地名記)○在所分明ならず、(地名記云、吉田村字杉山、式社考云、小机郷小机村、参考云、茅ケ崎村、孰れかしらず、) 神位 官社 続日本後紀、承和5年2月庚戌、武蔵國都筑郡杉山神殿預乏官幣以霊験也、同15年5月庚辰、奉授武蔵國無位杉山名神從五位下 神社覈録 |
郷社 杉山神社 祭神 五十猛命 創立年月及由緒詳ならす、神祇志料、神道集。松屋外集に依れば、古来六宮椙山大明神と称すと、蓋し武蔵國総社六所の一なり、朱印状あり、其文に 「武蔵國都筑郡西八朔村、極樂寺杉山明神社領同村之内五石六斗事、任先規寄附之詮全可収納并境内山林竹木諸役等免除如有来、永不可有相連者也、 慶安2年8月24日」 明治6年郷社に列す、社殿は一宇にして、境内地は468坪(官有地第一種)あり、 武蔵国郁筑郡杉山神社に關して一二の考説を附記すべし、続日本後紀(巻七)に、 「承和5年(〇仁明天皇)2月庚戎、武蔵國都筑郡扮(〇杉之古字一本作杉)山神社、預之官社、以霊験也、」 と見え、次いで「同15年5月庚辰奉授武蔵國無位杉山名神從五位下」とあり、延喜の制式内小社に列せらる、然るに郁筑郡中数社あり、今現に郷社たるもの三、其何れなるかを知らず、或は茅が崎と称し、或は吉田或は大棚と称す、黒川春村氏の如きは、杉山いま橘樹郡鶴見村にあり、往古は此地都筑郡なりしなるべしといへり、然れども何れも微証薄弱にして決せず、文政年間、猿渡盛章、郡内を沿ねく経歴して調査する所あり、遂に西八朔なる当社を以て之に擬す、然れども盛章氏なほよく考ふべしといひ、容盛氏又後の考を待になむといふ、更に又特選神名牒、猿渡氏の説を評して、是亦明証あらねば、如何にともしがだし、姑く附て後考を侯つと云ひしにも係はらず、小山田氏、注進三箇條には之を實跡と断定し、新編武藏風土紀稿及神祇志料亦当社と断定せしかば、今は恰んど当社に確定せるものゝ如し、武蔵総社諸上巻に、 「此御社の實跡詳ならざるに社て、いにし文政10年の夏、先人みつから都筑郡中を経歴して、探ね索められたる事ありて、其説に、此郡中の村々には、大かた杉山大神を崇め祭らぬ里なく、市が尾、谷本、西八朔、青砥、佐江戸、池邊、吉田、勝田、大棚、茅が崎、上星川、川島、恩田、久保、中山などいふ村々、何れも此社あり、なほ此外、橘樹郡、久良岐郡のうちにも、あまた所ありて。都ては二十五六箇所に及ぷと云、余都筑郡中は、あまねく回りて尋ね索めつれど、こゝを實跡と定むべき証もなし、其中にかの武蔵演路、式社記などに、實跡と定めたる茅が崎なると、吉田なるとは、外よりは聊ものものしく故づきて覚ゆ、すべて無徴にして決しがたし、武蔵演路、式社記などには、何を証として俄に定めたるにかおぱつかなし、ただ西八朔村なる社は、未だ誰一人、實跡と云る人もなけれど、余が考には、なかなかに茅が崎吉田などの社にはまさりで、故あるべぐ思ゆ、此社今は極楽寺といへる真言密寺の境内にありて、官社の廃せるものとは云がたけれと、問ひ尋るに、もとは今の社地より凡三町ばかり西北の方に鎮座す、其跡を今に大明の山といふ、又二十町ばかり東の方の小山村の内に、鳥居土といふ小地名ありて、昔此社の一ノ鳥居ありし所なりと、里人語り伝へたりとそ、さて社領などは、いかにと問へば。幕府の印証に、高五石六斗杉山明神領とありと云り、棟札などの古きはなしやと問ふに、出して見せつれど、さまで古き物にもあらず、杉山明神は、八幡宮相殿に座すよし見えて、例の本地はこゝも不勤なりき、かくてかの大明神山を尋ね行くに、此山、裾の引延たる所二町余、高さ二十間ばかり、山の形容とりよろひおだやかにして、南の方の麓に、七八尺ばかりの切崖ありて、七八間ばかも平らかなる芝生残れり、今は次第に田に黎れて、かく縁になれるものにて、もとは此水田のあたりまで、すべて小高き平地なりけむおもかげ見ゆ、さて漸々水田に攣取たれば、かの切崖の如き形の残れるなり、かくする時は、後の方に山を負ひて、前なる小高き平地に、南に向て社は立たりけんとおぼし、さてこゝより二十町ばかり隔て、往昔一ノ鳥居ありし所を、今も鳥居土と唱へ来れるなど、實に官社の廃せるさまとそ云ふべき、又幕府の印証は、豫て社領のあるにまかせて寄せ進らるゝものなれば、当時已に自余の社と、同等にはあらざりけむ、彼是を考合せて、余はなほ此社に心ひかれ侍べる、されど此は己が考の一に備へたるのみにして、必しも此処を實跡と定むるにはあらす、なほよく考ふべしと説れき、小山田翁の注進三箇條に、かの西八朔なる社を、實跡と定めて注されたるは、上に挙たる先人の説に依られたるにて、外に徴証ありてのことにはあらす、余は姑く疑しきを聞きて、後の考を待つになむ。」 明治神社誌料 |