大森海岸駅南に鎮座する。 社名「磐井」の由来は、社殿の地下に大きな岩磐があり、その岩磐の間より水が湧きでている事に由来するという。岩間より湧出する井戸が人々に尊重され、神聖視されて、やがてはそれを祭るようになつたのであろう。 磐井の井戸の水は、万病に効く薬水とされ、心正しい人には清水だが、邪心のある人には塩水となると云われている。 |
由緒 扨当社は、人皇31代敏達天皇の2年8月始めて経営あり、神座の正面にいますは、応神天皇、左は大己貴命・仲哀天皇、右は神功皇后姫大神なり、社の側に【磐井】あり、伝え云ふ土人祈願の時此水を飲むに、祈る所正しきものは、自ら清冷にして、邪なるものは忽ち変じて塩味となる、斯る霊水なるをもつて、近国の病有る者之を服するに其效を得ること著し故に土俗之を称して薬水と曰ふ、磐井神社の名も全く此井有るが為なり。 其後56代清和天皇の貞観元年に、六十余州に於て総社八幡宮を選び定めさせ給ひし時、武州においては当社を以つて総社に定め給ひ、宮社に列せし由三代実録に載す、萬葉集に、アライガ崎笠島と詠めるは、此社の所在の地を指すなり、御神宝に、【鈴石】有り、此石は、神功皇后三韓御征伐の際、長門国に宿り給ひし時、豊浦の海にて得玉ひしものにて、御船中の玉座近く置かせられ、夷狭御征伐神国豊栄の基を開き玉ふ、又御凱旋の日は御産屋に置かせられ、御産平安皇子御降誕御在位繁昌の神徳を以て、此石を如意の宝珠と御称美あらせられしと云ふ、其後聖武天皇の御宇、磯川朝臣年足、宇佐宮に奉幣の時、神告に因り此霊石を授けらる、年足の嫡孫中納言豊人卿、当国に守りたし時、神勅に因り当社に奉納せりと云ふ此石打てば、サウサウとして鈴音あり、是れ其名有る所以なり、而して往時此神社の所在地一帯を鈴ヶ森と号せしも、亦た此鈴石あるを以て也。 当社鎮座の初め延暦の頃より永正年中に至る迄680年間は、神威赫然として宮中繁栄たりしも、永正年中兵火に罹り本社末社共に皆鳥有に帰す。其後再営の功成つて復た昔日の如く建立せしも、天文年中重ねて火災に罹り鎮座の縁起其外の書簿悉く焼失し、是より再修ならず、神威日に衰へ、四基の鳥居は海中に倒朽し、宮地は潮波に損缺して漸く社のみわずかに残る、其後寛文年中、神主藤原善光・別当密厳院釈栄等悲歎に余り、社を再興す、天正18年徳川家康関東下向の節当社に立寄られ参拝あり、其後元禄2巳年三代将軍家光参詣の砌、寺社奉行本田紀伊守を以て向後当社を祈願所に申付ける。 享保10巳年八代将軍吉宗、伊奈半左衛門をして本社拝殿末社共建立せしめられたり、近くは明治元年10月12日、明治天皇御東行御通輦の際、神祇官権判事平田延太郎延胤をして、当社へ御代参せしめられ、奉弊料金千匹御奉納ありたり。(荏原風土記稿磐井神社由来) 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
磐井神社 「三代実録」によれば、貞観元年(859)「武蔵国従五位下磐井神社官社に列す」とあり、当社を武州の八幡宮の総社に定めたといわれる。 また「延喜式神名帳」に記載されている古社であり、当社の由緒書によれば、徳川家の将軍も茲に参詣したことが記されている。万葉集の「草陰の荒藺の崎の笠島を見つつ君が山路越ゆらむ」の歌にある笠島とは、ここの笠島弁天を指したものという説もある。」 昭和49年2月2日指定 大田区教育委員会 社頭掲示板 |
磐井神社 鈴石(すずいし)は、転がすと鈴の音がするというので江戸初期の頃に有名になった。鈴が森の地名はこの名に因んだものだと伝えられる。神功皇后が長門の国の浦の浜でこの石を発見し、紆余曲折を経て、この社に納められたものだという。大田区の文化財に指定されている。 社伝によると、この石の由来は、神功皇后が長門国豊浦の浜で発見され、応神天皇降誕の時は産屋におかれました。そののち筑前の香椎宮に納められましたが、また豊前国字佐宮に移され、年月を経て宇佐宮の勅使、神祀伯石川年足に神勅があって授けられました。年足の孫豊人が、延暦元年(782)に武蔵国の国司に任ぜられ、多摩川のほとりに居住し、当社に納めたのだといわれています。 烏石(からすいし)は、山の形をした自然石の上部に、墨で書いたような烏の形をした模様があるところから、この名が付けられた。もとは鷹石と呼ばれて麻布にあったが、松下烏石という人が移した。松下烏石の宣伝もあって、この石も有名になり、特に江戸文人に好まれて、鑑賞のために訪れる者が後を絶たなかったという。大田区の文化財である。 鈴石、烏石ともに、現在は社務所に保管されている。 磐井の井戸の水は、万病に効く薬水とされ、心正しい人には清水だが、邪心のある人には塩水となるそうである。 |
鈴石・烏石と江戸文人の石碑 当社の『略縁起』によると、鈴石は、延暦年間(782〜806)に石川豊人が武蔵国の国司として赴任したとき、神功皇后とゆかりのあるこの石を当社に奉納したと伝之られる。 これを打つと鈴の響きがあることから、鈴ヶ森の地名がうまれたともいう。 また烏石は、鳥の模様が墨絵のように浮き出ている自然石で、書家松下烏石(うせき)が当社に寄進したことから、江戸の文人墨客たちにもてはやされた。その由来を記した烏石碑をはじめ、筆塚などの記念碑が、いまも境内に残されている。 烏石碑 元文6年(1741) 筆塚 天明6年(1786) 竹岡先生書学碑 寛政8年(1796) 狸筆塚 文化6年(1809) 昭和49年2月2日指定 大田区教育委員会 社頭掲示板 |
磐井神社 式内社と呼ばれる古い格式をもつ神社です。『三代実録』によれば貞観元年(859)「武蔵国従五位磐井神社官社に列す」とあり、この神社を武蔵国の八幡社の総社に定めたといわれ、また平安時代(十世紀)に編纂された『延喜式』の神名帳に記載されています。 別名、鈴森八幡宮とも呼ばれ、当社の由緒書によれば、江戸時代には、徳川家の将軍も参詣したことが記されています。 万葉集の「草陰の荒蘭の崎の笠島を見つつか君が山路越ゆらむ」の歌にある笠島とは、万葉の時代の神社周成の地名であり、笠島弁財天にその名ごりを見ることが出来ます。 また、当社の境内に佇む一対の狛犬には、都内でも珍しく子獅子が合計で6匹もおり、子宝の早朝として親しまれています。 公式HP |
鈴石・烏石 大田区文化財 鈴石・烏石(非公開)と江戸文人石碑群 鈴石は、社伝によれば、延暦年間(782〜806)に武蔵国の国司であった石川氏が奉納した神功皇后ゆかりの石とされる。これを打つと鈴のような音がしたことから、「鈴ケ森」の地名の由来となったと伝えられる。 また烏石は、烏の模様が浮き出た自然石で、江戸時代の書家、松下烏石(?〜1779)が寄進した。鈴石・烏石は、ともに屋内に保管されている。 江戸文人石碑群は、この烏石の寄進の由来を記した烏石碑をはじめ、松下烏石の門人等が建立寄進したもので、向 かって右から次のように並んでいる。 狸筆塚 文化6年(1809) ■(=退)筆塚 天明6年(1786) 竹岡先生書学碑 寛政8年(1796) 烏石碑 元文6年(1741) これらは、かつて弁天池周辺にあったが、神社の境内整備に伴って現在地に移された。 社頭掲示板 |
磐井神社 延喜式内社 磐井神社 由緒 当社は人皇30代敏達天皇3年(573)8月の起源といわれており、式内社と呼ばれる古い格式をもつ神社です。 『三代実録』によれば貞観元年(859〉「武蔵国従五位磐井神社官社に列す」とあり、この神社を武蔵国の八幡社の総社に定めたといわれ、また、平安時代(十世紀)に編纂された「延喜式」の神名帳に記載されでいます。 別名、鈴森八幡宮とも呼ばれ、当社の由緒書によれば、江戸時代には、徳川家の将軍も参詣したことが記録されています。万葉集の「草陰の荒蘭の崎の笠島を見つつか君が山路越ゆらむ」の歌にある笠島とは、万葉の時代の神社周成の地名であり、笠島弁財天にその名ごりを見ることが出来ます。 また、当社の境内に貯む一対の狛犬には、都内でも珍しく子獅子が合計で6匹もおり、子宝、安産、家族円満の祝いとして視しまれています。 社頭掲示板 |
磐井神社 磐井は伊波為と訓べし〇祭神大己貴命、(風土記)○不入計村鈴森に在す、(地名記)今八幡と称す、例祭 月日、○惣國風土記七十七残欠云、武藏國荏原郡磐井神社、圭田三十六束三字田、敏達天皇2年癸巳8月、所祭大己貴命也、社辺有磐井、祈事土俗有妄願則其御手洗井水変塩味、事正直則如清水、近國奇之祈病者取之服之、其功験如神、土俗曰藥師水、 官社 三代實録、貞観元年10月7日己丑、武蔵國從五位下磐井神列於官社、 神社覈録 |